オーランのすてきな宿で害虫駆除業者とニアミス
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港からあまり離れていないところに、宿をとった。
灰色石材の壁にからみついたばらが、薄いもも色の花を咲かせている。露天商が来ていないか探りやすいようにと地の利だけで選んだが、実にこじゃれた宿である。
室は空いているが準備ができていない、と受付台で言われた。
「まことに申し訳ございません、設備の点検中なのです。じきに終わりますので、こちらの玄関広間にてお待ちいただけませんでしょうか? お花湯をお持ちしますから……」
もう夕方なのに、点検だなんて変な話である。
しかしベッカは気に留めず、これまで通り寝台二つの室をとった。
「僕、ちょっとお手洗い行ってくるよ。飲み物がきたら、もらっておいてね」
「はい」
受付台近くの角へ消えたベッカを見送り、ブランは玄関広間の長椅子の一つに、ひょろんと腰かける。
もう二組、同様に部屋の準備完了を待っているらしい、若い男女客の姿があった。皆、湯のみを手に、静かに談笑している。
蜜月旅ってやつかな、とブランは思った。
時々義姉たちが楽しそうに思い出話をする、そのすてきな旅に出てくるのはちょうどこんな感じの、かわいいお花いっぱい宿である。
――ベッカさんもいつか、ゾフィ姉ちゃんを連れて来ればいいんだ。
全くなんの邪気もなしに、少年はそう考えた。
山賊たちから守られて以来、彼は心のなかでも“ベッカさん”と呼ぶ。そうとしか呼べなくなっていた。いいやつどころでない、とび越えて大事な人になりつつある。
加えて、何か聞いた時に答えてくる、そのこたえ方が他の大人と違った。子ども相手に何かを教えてやろうというのでなくて、ブラン個人がわかりやすいように、伝わりやすいようにと話す工夫を難なくしているのはわかった。
そして上から目線じゃない。ちゃんとブランをひとりの人間、準騎士として扱ってくれるのが心地よいし、面白かった。
……いや、上から目線はそもそもが物理的に無理であるが、……とにかくベッカの話はちゃんと頭に入ってくる。話に集中できるのが不思議だった。今まで家族と、ゾフィのようにごく近しい人以外、彼の心に沁みてくる話し方のできる人間は珍しかったのに。
ブランはベッカを、“気に入って”いた。
だから同様に、“気に入って”いるゾフィと一緒になってくっついたら、それまた気に入る結果になってより面白いのだろうと、子どもらしく楽しさいっぱいに考えていた。
給仕係のおばさんが、お盆に湯のみ二つをのせて持ってくる。
両手にもらった二つの杯、りんごはっかの香る湯気が、ほこほこ出るのをじーと見つめて、ベッカを待つ。
とんとんとん……。
大きな人が階段を降りてくる音、ブランはそちらを振り返った。
質素なねずみ色の麻衣上下を着た男性の顔を見て、少年はちょっとぎくりとし、あわてて目をそらす。
おじさんは、目の下を藍色の布でながく覆っていた。風邪をひいた人がつける防疫布みたいだったが、……何だか妙だ。しかしブランがどきどきしたのは、別のところである!
その中年男は、するするっと受付台の前に立ち、宿のあるじに向かって低いひょうきん声でささやいた。
「終わりました。前回と違って、本格的に繁殖する手前だったから、そんなに数はいません。死骸も、かるーく寝台まわりを掃除するだけで、大丈夫」
「助かりましたッ。つぎの定期点検には、いつ頃お越しいただけます?」
あるじも、上品な笑顔でささやく!
「夏の終わりくらいですかね……。ああ、もう予約入れておきましょう」
「ええ、ええ。どうかよろしくお願いします、前金をすぐにご用意しますね! それとこちらは、報酬とはべつにお馬代でございます……」
「いつも、すみませーん」
ごしょごしょした会話は、ブランの耳にも他の客にも届かなかった。
ブランが一生懸命あさって方向を見ているうちに、変わった風体の専門業者は分厚い布包みと、預けておいた山羊毛皮の上っぱりを宿のあるじから受け取り、するする音もたてずに出て行ってしまった。
入れ替わりの頃合で、ベッカが玄関広間に戻ってくる。
「お待たせ、お香湯きてたんだ? 飲まないの?」
「……ベッカさんッッ」
長椅子脇にぷよんと腰かけたベッカに向かって、ブランは興奮のまじった囁き声をあげる。
「どうかしたのかい?」
「まゆ毛が左右いっぽんの人、見たことありますかッ」
「はあ?」
「今通った業者さんが、まゆ毛いっぽんだったんですッ! 俺はじめて見ました、あれって自然なのかな!? それとも、がんばってつなげたのかなぁ……!!」




