ベッカが改姓した理由
「ベッカさんは、ゾフィ姉ちゃんが好いんでしょう?」
一瞬たってから、ブランの言っている意味を理解したベッカは、椅子の上でたぷーんと弾んだ。
「ブラン、くーんッッ!?」
「ちがってましたか」
わなわなわな、ぷよぷよぷよ、ベッカのふくよかな顔は硬直しかけてゆるんで赤くなり、最終的に波線描写のふるふる輪郭になってしまった。おもしろい現象である。
ブランは、そういうベッカを全く笑わず見据えている。真剣である。こんな顔を相手に、嘘をつくやつは大ばか者だ!
「……違ってないんだけど、絶対ぜったい誰にも言うんじゃないよッ」
「言いません。紹介してもらうから、お母さんにだけ言います」
「いやッ、お母さんにも言っちゃだめッ。いいから今は秘密に黙っておくの、上司命令! いいねッ!?」
「はい」
「……何で知ってるの!」
やたらこの質問が繰り返されている気がする。
「何となくわかりました」
「いつからッ」
「最初から」
「はーい、いか酢にんじん!」
鉢に盛られただいだい色の千切りが、二人の間に入ってきた。
「こちら、りんごの発泡果汁ですー」
「うわ、うまッッ」
結局いかしたにんじんなんじゃないか、とブランは思った。
するめと人参、なんて合うんだ! 考えた人は天才だ、きっとほんとうの空の下に、ぴかーとひらめいたのに違いない。
偉大なるいか酢にんじんのおかげで、話題から逃れられたベッカは、安堵しつつ果汁の杯をかたむける。
――そうかそうか、ゾフィさんは“市内在住の男性”が第一条件なのだ。僕はちゃんと満たしているぞ、ようしッ。
「ベッカさんち、すっごいお金もちなんでしょう。あんなにでっかいお家なんだもの、細長いゾフィ姉ちゃんが一人くらい入っても、全然平気ですよ」
「ぐぉほッッ」
逃げられてなかった! 軽やかにはぜるりんご果汁にむせかけて、ベッカは手巾を口にあてる。
「……するめなんだからね、ブラン君! ちゃんと噛んでるッ!?」
「味しみて、めっちゃやわらかいです。そう言えばベッカさんちの会社は、“タバナー貴石”っていうんですよね。どうしてベッカさんだけ、貴族姓なんですか?」
大人だったらまず聞いてこない質問を、少年はかるーく口にした。
「えーとね……、母が貴族なんだ。僕も生まれた時は、ベッカ・タバナーだったんだけど」
幾つもの貴石鉱を所有するタバナー家の次期当主だった父は、自身が鉱脈技師だった。騎士の娘マリカ・ニ・フリガンを迎え、二男一女をもうける。末っ子がベッカだった。
現在当主の兄はやり手である。姉も優秀な営業担当、それぞれの配偶者と子とともに、皆一緒に同居している。仲は良い。
「へえ、大家族なんですね! さすが豪邸なんだ、ベッカさんみたいな人がたくさんいても、楽らく収納できるんだー」
「そういう場合は、収容って言葉を使いなさいね。……ちなみに、こういうふんわり型は、僕とミラベルばあやだけだよ」
あのお婆ちゃんは筋ばってたけどなあ、と思うがブランは口に出さず、するめを噛んだ。
「……兄や姉と違って、僕はあんまり家の仕事にむいてなくってね。それで皆と相談して、母の姓をとって、騎士見習になることにしたんだ」
「へえ、そうだったんですか。その時ベッカさん、いくつだったんですか?」
「十一歳だったよ」
「そんなに早く!?」
これにはブランも驚いた。十五の自分がこれだけ進路に迷っていると言うのに! ベッカはそんなに小さい頃に、大事なことを決断してしまったなんて。
「……選んで決めるの、怖くなかったんですか……?」
「迷ってるひまが、なかったからね」
ベッカは苦笑して、するめを口にする。
「でも、どうして……。あ、お母さんのうちの方が、絶えそうだったとか?」
「いや、伯父さんが今も元気に本家を守ってるよ。いとこもたくさんいるし、何も問題はないんだ」
だから、タバナー邸で唯ふたり、フリガン姓を持つ母とベッカは分家の扱いである。
「誰か何かに、強制されたわけじゃないんだ。僕は文官騎士になりたくて、なった。そのためにベッカ・ナ・フリガンになった、と言うだけなんだよ」
ブランは不思議そうに、うなづいている。
「……ほらほら、店員さんが来る。あれは僕らの、しらすととこぶしじゃないのかなッ」
今度こそ、本当にブランの注意がそれて、ベッカは小さく溜息をつく。ふう……ぷよっ。




