謎の騎士=英雄おじさん説
「ベッカさーん。俺、ちょっと思い出したんですけどー」
平らかな声で、ブランが前方から話しかけてきた。
ぽつぽつ農家の荷車が過ぎる切り株街道、遠方にうすく靄がたなびいているが、見通しは良い。いつも通り視界を広く取りながら、黒馬上の少年は、すらっとベッカのごま小馬に並んだ。
「何だい?」
「ルーハさんの話。ほら、奴隷商人にさらわれかけた子どもを助けたっていう、“英雄おじさん”の噂。おぼえてますか」
「あー、言ってたね」
「その中の“英雄おじさん”が、俺たちを助けてくれた人なんじゃないのかな!」
「ふーむ」
ベッカは小首を傾げる、ぷよん。
「……でもその人、三十代くらいだったんでしょう? おじさんって呼ぶには、ちょっと若すぎやしないかな」
「俺から見たら、お兄さんでしたよ。でもほら、小さい子どもだったらそれくらいの人でも、おじさんって思うんじゃないですか」
「そうか。そうかもね」
自分はその人を、はっきり見ていないので何とも言えない。けれどブランの言い分はもっともだ、と言える。
「ならず者たちと同郷って言ってたから、テルポシエ人なんだろうな。ベッカさん、テルポシエ騎士の外套って、何色でしたっけ」
「え~とね、草色だよ」
「草って言っても、いっぱいあるし……あんな感じ?」
少年は手綱を握る右手を上げて、自分の前方右側に広がる原を示した。
「いいや、もうちょっと濃いめかな。テルポシエはここやガーティンローより雨が多いから、原っぱの草も少し色味が違うんだよ。どっちかと言うと、翠玉に近いね」
さすが貴石商の御曹子である。より近い例を、石で出してきた。
へー、と素直に思いつつ、ブランはうなづく。
「じゃあ、やっぱりあの人、テルポシエの貴族なんだ。一級騎士ってやつだったんだな」
そういう呼び方で自分達を市民兵と区別していたのは、テルポシエだけだった。
そもそもの市民兵制度がないガーティンローでは、正規騎士と文官騎士の別があるだけである。
「どうしてわかったんだい?」
「ちらっと見えた外套の裏っかわが、そういう明るい緑色でした。黒外套で黒ずくめに見えたけど、あれは裏返して着ていたんだ」
「へーえ?」
言いつつ、ベッカは再びいぶかしく思う。
いま三十代の一級騎士なら、エノ軍との総決戦に参加したはずだ。ウルリヒ王以下全員戦死と聞いていたけど……それを生き延びた例外なのかもしれない。あるいは、……敵前逃亡したとか?
それなら、大っぴらに名乗ることもできないだろう。
占領後、テルポシエの貴族は身代金を払った上で追放されてしまったから、行くあてもなく流浪を続けているのかもしれなかった。元市民兵のならず者と、ほとんど変わらない境遇だ。
――まあ、無抵抗の女性を手にかけてしまうくらいなのだから、どこか危ない人なのかもしれない……。
ベッカは再び、寄り添えず救えなかった存在のことを思い出して、小さく溜息をついた。
ぽくぽくぽく……。
ごま小馬の蹄の音は、それでも確実に、前へ前へと進んでいる。
・ ・ ・ ・ ・
少し離れた地。
ガーティンロー領北端付近、森の中にある小さな湖のほとり。
騎士は短槍先っちょに糸をくっつけ、水中にたらしている。隣の女神に、のんびり話しかけた。
「黒羽ちゃん。今回は私まで若返らせること、ありませんでしたのに……。すり傷くらいしか、なかったんですから」
『いいじゃないの、悪者達はいっぱいいたし。ぷよ兄ちゃんの深い傷を治しても、まだまだ熱がいっぱい、余っていたのよ』
「でもなあ……。黒羽ちゃんは、しぶミルドレの方が好いのでしょう? 鏡がないからはっきり分からないけど、この髪のこしから見るに、青臭い三十代に戻っちゃいましたよ」
『……わたしはミルドレの全年齢仕様が気に入っているから、あなたの健康最優先なのよ。ほら、お腹の中は若返ってるかどうか、わかりにくいんだもの。定期的に熱を入れないと、不安になるの』
くるくる黒髪にふちどられた小さな顔に真剣な表情をのせて、黒羽の女神は言う。今日は頭のてっぺんに、うす紅色の野ばらをたくさん咲かせていた。
「そうなんですかー? ……でもね、あの女性は……。救いしろがあるかなと思っていたので、残念だったかも。……って、あらららららー、機嫌わるくしないでくださーい」
『……わたしは。あの子が一番、見込みなしだと感じたわ。女性であることそのものに罪をかぶせて、何に立ち向かおうともしなかった。自分自身を幸せにすることすらあきらめて、変わることを拒むなんて。その先には、滅びしかないじゃないの』
かの女は、自分に向かって怒っているのではない。わかってはいるが、女神にぷいと横を向かれてしまって、ミルドレはすーと蒼ざめた。せっかく延ばした寿命が、七日間くらい縮まってしまった気がする。
おろおろおろ……。ここでは実年齢相当の心細さを全開にして、騎士はうろたえる。
ところでミルドレの短槍の先、釣り糸はぴくりともしない。
今日は全然、つれないらしい。