黒羽ちゃんと不滅のお供え騎士、参上
・ ・ ・ ・ ・
首筋に手巾をあてて、ベッカは走っていた。そのすぐ後ろを、ブランが駆ける。
時々雲間からさす月の光からみて……、恐らく夜半をずっとまわっているのだ。昼間に見た時と、村の風景は打って変わって、不気味に静まり返っている。
ぽつぽつ散在する家に、誰かが住んでいる気配は全くなかった。黒くうずくまる小屋は、闇を湛えた窓が双眸に、ちょうど巨大なしゃれこうべみたいに見える。
何度も転びそうになりながら、それでもベッカは森を目指した。
来た時、道なりにあった森……。あそこへ逃げ込んで息をひそめれば、きっと追ってくるならず者たちをやり過ごせる!
その森の端を視界にとらえた時、乾いた村道のずっと後方から、恐ろしげな犬の吠え声が聞こえてきた。
ばふ、ばふ……おおおん!
ブランはいまだ眠り薬の残る、ふらつく頭をふり立てて、後ろを見る。
「くそっ、奴ら犬を引き出してきた!」
二人は森へ飛び込んだ。
次の瞬間、ベッカがぼざっと倒れ込んだ!
「うぬうッッ、なんて足場の悪い森だっ」
いや、足場のよい森なんてあるわけがない。
「ベッカさん、こっちっ」
夜目のきく少年は、手巾をあてていない方のベッカの腕をとって、進み出した。
――さっき助けてくれたおじさん、あと八人もいるって言ってたっけ? 犬で追われちゃ、すぐに捕まっちまうぞ!
祖父に教えられた、生き延びるための様々な技法を思い起こしながら、ブランは進む。
ベッカがどんどん息を荒げている、……傷の手当てを、ちゃんとしないと……!
せせらぎの音が、少年の耳をかすめた。
「ベッカさん、川があるからそっち行きましょう。やつらをまける」
果たして、そこには流れがあった。狭いところで川幅は二十数歩か。
暗い中でこんなところを渡るのは、危なすぎる。しかし……。
「ベッカさん、泳げますか?」
「……浮けるよー……」
「そいじゃ、大丈夫だ。ぜったい、離れないで」
ひゅうんッ! ぽとッ!
すぐ脇の木立に、何かが当たる。
ばふ、ばふッ! 犬の吠え声も、近づいてきた!
迷っている暇はない。二人はざぶり、と流れに入る。
そうして、ブランはすぐに後悔する。真ん中あたりに差し掛かったと思ったところで、……足が立たなくなってしまった! そう、ながい長ーい、少年のひょろ足が、である。流れは実は、相当に深い淵を含んでいたのだ。
「ベッカさん。大丈夫だから、浮いて! 俺は泳げるから、引っぱります」
「……」
その浮かした体が重い、……いいや。重いのは、ブラン自身の身体だった!
得意なはずの犬かきでばたつくけれど、ちっとも前に進めない。
次第に二人は、下流へと流され始めた。
ふと気づく、ベッカの腕からするりと力がぬけていく。もう片方の手で、顔の前に浮かべた何かにすがりつきながら……。
「ベッカさん! しっかりして、ベッカさんっっ」
ぽしゃんッ、後ろの方でやたら大きく水が跳ねた。振り返る必要はない、矢あるいは石つぶて……。追手が喰らいついてきたのだ!
恐らく川沿いに、二人を見て歩いている。力尽きてどこかの岸に引っかかるのを待っている。あるいは商品とすることをあきらめ、自分達を消してしまおうと決めたのか。
「ベッカさん。ベッカ、さぁぁん!」
泣きの入った少年の声に、かえる言葉はない。けれどかろうじて水中で繋がっていた手、その大きな手が、かすかに力をこめて握り返された。
つめたい水の中でも、そこだけはっきりと熱を感じ取れる。
――死なせちゃだめだっ。俺も、死んじゃだめッッ。
ブランがぐうう、と歯を食いしばった、その瞬間のこと。
『ひょろぷよちゃーんっっ! 助けに来たわよーっっ』
ずざざざざっ、
いきなり水面から垂直に体が引き上げられる、ブランはぎょっとした。
「えっ、えええっ!?」
思わず、ベッカの体にしがみついた。
『あらっ、お兄ちゃん気絶しちゃってる……、あぶないわッ』
「え、ええええ、うええ、何でぇええ!? 浮いてるーッッッ」
彼を抱きこんでいる腕も、力強く羽ばたいている黒い巨大な翼も見えないブランには、ただひたすら自分とベッカが“宙に浮いている”としか感じられない。恐慌した。
「ぎゃああああああ」
『ひょろちゃんは大丈夫そうだけど……うん、怖いわよね、ごめんね…… ほあたッッ!』
常人の目には見えない黒き翼、その先っちょ手羽先でみぞおちを突かれ、ブランはかたりと失神した。
『そ…それにしても……! 見かけによらず、ひょろちゃんの方が重いわっ。どういうことなの、鎖鎧で最重装備していた時の、ミルドレみたいじゃないの!? よいしょおーッッ』
かの女はそのまま、水の滴るぷよ・ひょろ両人を片腕一人ずつ提げて、ふわんと岸へ飛び戻った。
『ミルドレー! 二人とも生きてるわ、でもお兄ちゃんがけがしてるのッ』
すたたた、素早く近寄ってきたちりちり髪の騎士は、かの女が地べたに下ろしたベッカの顔を見た。
「あらららら、いけませんね! こんなに深く傷ついているのに、水に入っちゃうとは……。このままでは危ない、黒羽ちゃん! 助けましょうッ」
『そうねッ』
「私の方は、全員終わりました。とどめはさしていませんから、どんどん“熱”を集めちゃってください!」
『ようし、向こうの方ねッ』
うつろにさまよう意識の底。
途切れとぎれに自我を捕まえては手放しながら、ベッカは自分たちが助かったらしいことを何となく感じていた。
薄く開いた目が、細長く視界を切り取る。岩がごろごろしている川岸、その地面に月光がよぎる。
ささやかな明かりに透かされ、どうも小柄な女性の影が、ふわりと浮き上がったようだった。両脇にばかでかいつばさみたいなものが、ふわふわ動いているような気がする……がどうでもいい。二枚羽の中心にある女性の身体の輪郭のほうが、瀕死のベッカにとってははるかに重要案件である。
その、曲線を見よ……!
「……く……、くび……れ……!」
がくり。
ベッカは完全に、闇の中へとねむり落ちた。