優秀文官フィールドワーク
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翌朝起き出してからも、ブランはベッカに気配のことは言わなかった。
と言うか思いっきり忘れて、宿の食堂で蜜煮入りの杣がゆをばくばく食べていた。
あたたかい朝である。
ベッカは村の厩舎からごま小馬を引き出して乗っかる前に、駅馬業者に行き先地域の交通状況をたずねた。
「この、リメイーの町までは問題ないよ。でもその先からブロール街道の通る辺りは、保証できる駅馬業者は全然ありませんやな……。ブロール街道には宿場らしい町なんてないし、小さい村がぼつぼつ道に沿ってるだけだからね。どこまで行くの?」
駅馬業者のじいさんは、ベッカのことを平民の商人と思い込んでいるらしかった。でっかい小僧を連れて、商談の旅なんだろうとふんでいる。
「うーん、ブロール街道まで出るつもりはないんですよ。ただこの辺の、小さい集落をいくつか回るんです。馬とは、ずっと一緒にいたほうがいいのかな……」
地図を手に、ベッカもぷよんと思案顔である。
「気をつけた方がいいよ。どこに泊まるにしたって、馬は宿の厩に置いて、夕方からは出歩いちゃだめだ。よそ者が人さらいをしてるって噂が途切れないし、何と言っても東部のやつらがうようよしてるんだ。小僧さんを取られちゃ、たまんねえでしょ」
「はぁ……」
「全く、あいつらは本当の災厄だ。故郷を追われて、ほうほうの体で逃げてきたというのはわかるがね? それならそれで、流れ着いた場所のしきたりを尊重して、まじめに生きてもらわにゃあ。いつまでたっても腰を落ち着けずに、やくざな仕事で俺たちの持ちものをかすめ取ってばっかり。せめてイリーのことばで喋って欲しいよ、……どうして皆、メイムの人たちみたいに、できないもんかね」
半ばあきらめたような口調で、じいさんはぶつくさ文句を言う。
慣れた物言いだった。日頃から誰かれ構わず、愚痴を言っているのかもしれない。
ベッカは何も言わなかった。肯定もせず否定もせず、神妙な面持ちで、ふんふん・ぷよん、とうなづくばかりであった。
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二人は一路、北をめざす。
“切り株街道”と呼ばれるこの道は、イリー湾に面したファダン市から、その国境北端までを貫く領内随一の主要路だ。
約三百年前の植民到達以来、ファダン人が深い森を切り拓いて作ったものである。
同様の南北幹線路はガーティンローにもあるが、湖沼地帯が点々と散在するために、そこまで壮大な長めの切り株列はできなかったらしい。
道脇のそこかしこ、確かに旧そうな切り株の腐れあとが見えるのに気付いて、ブランは首を振る。街道の両脇、樹々の密度もかなり高い。不審者が潜むのに、都合がよさそうだった。だからベッカとも、少し距離をとって常足を続ける。
ひろく広く視野をとる、いやな気配がないだろうか? 行商人や農家、まじめそうな領民の人通りが多いのは助かる。
その朝はほとんど言葉を交わすことなく、ふたりは歩を進めた。
第二の調査地、オレンゼの集落に着いたのは、午後のはじめである。
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メイムの村とは打って変わって、オレンゼはひどい所だった。
かつてイリーの牧農村があった廃墟に、東部風の簡素な藁ぶき小屋と、天幕がつらつら寄り添っている。
掘立て小屋のあいま、吊りわたした紐に布ぎれがかけられて、侘しくそよぐ。そういうはかない隠れみのの中から、女や子ども達が不安げな視線を投げかけてくる。
馬をひき引き歩みながら、ベッカは年のいった女二人に、声をかけた。
「福ある日を。いい陽気ですね」
後ろのブランは、内心で仰天した。ベッカの潮野方言が、あんまりさまになっていたものだから。
年増ふたりも、ちょっとだけ口元をゆるめた。
「あたたかいもんだから、喉がかわいてしまって。ここらで水ののめるところ、知りませんか?」
「……うちの井戸で、あげようよ」
昔のイリー住民が残していったのを直したとみられる、旧式の井戸を示して女は言った。
古びた釣瓶に汲まれた水を、皮袋に受けてのんで、ベッカは笑った。
「どうもありがとう」
「……お馬にも、あげようかい?」
もう一人の女も言う。
本当にふしぎだ、とブランは少し後ろで立ち尽くしたまま、思っている。
ベッカはどうして、こんな風にするりと女たちの中に入って行けるのだろう?
挨拶をして、水を飲んだだけで……。おばさん二人は、すっかり警戒心を解いている!
「皆さんこの辺り、長いの? ええ……そうなの、半島の北のほうから。ずいぶん遠くから来なすったんだ……。そこ、どんなところ」
既に調査を始めてしまっている。
ブランはさりげなく周囲に気を配る、遠巻きに見つめてくる子ども達の視線がある……。




