ぷよひょろ、最初の共通点
「ブラン君……?」
ベッカは、そうっと呼びかけた。
「……おいしかった、です……」
幸せそうに上がった口角、片方の横っちょに、白くぽちんと泡乳がくっついている。
「ええと、僕はちょっとお手洗いへ失礼しますね……。はっか湯のお代わりが欲しい人は? いない?」
ぷよ・すすす、と音もなく立って行ったベッカの姿を横目で見送ってから、ルーハは向かいのブランを見て、自分の唇はしに指をあてた。
「甘いのがついてるよ」
「え」
反射的にブランの手が触れたのは、反対側の口端だった。
「いや、こっち」
キヤルカの手が伸びて、ブランの口元にふれる。
その触れ方があんまり母と同じだったものだから、ブランの心は身構えなかった。
「すいません……」
「ブラン君。いつから、ベッカさんについているの?」
やさしい調子のイリー語で、キヤルカが問う。
「けさからです」
「どう思う?」
「どうって、……」
でぶっちょ文官、以外の言葉が見あたらなかった。
「おとつい、初めて会ったばっかりで……。あんまり、全然、よく知らないんです」
「でしょうね。あなた、ぽやっとしてるから、そんな感じだろうと思った……」
「ブラン君。ベッカさんはね、むっちゃくっちゃすんごい人なのよ!」
さっき甘味完璧盛りをほめた時同様、自信満々のどや顔でルーハが言い切った。
「見かけは、あんなふんわりしたお兄さんだけど! 頭の中はきれっきれで、色んなことを細かいところまで憶えてるの。そういうばらばらを繋ぎ合わせるのがうまいから、難しい問題をやわらかーく解決しちゃうのよ」
「わたし達、東部ブリージ系の住民のあいだでは、一年前の殺人事件を解決したことで有名な人なんだけど……あなたは知っている?」
ブランはふるふるっと、頭を横に振った。
「あのね……、わたしの同僚のレグリさんて人が、その……死んでしまった時。色々と不審な点がたくさんあったから、巡回騎士たちが手を焼いていたの。そこを調べ回って、明らかにしてくれたのがベッカさんだったの」
「あたしたちと会ったのも、その調査のために店に来た時。でも下手人がわかって後始末が済んでからも、ずっと相談にのってくれた」
「実はね、それまでわたしとルーハは戸籍のない不法滞在で、いたのも場末の宿だったんだけど。あの人がていねいに手伝ってくれたから、外来市民枠で籍を作ることができた」
「税金は取られちゃうけどさ!」
「何言ってんの、ルーハ。それだって、ベッカさんがあんたとわたしを養子縁組して、扶養控除全開にしてくれたから、だいぶん楽な額になってるんじゃないの。ガーティンローの市に守ってもらってる身なんだから、払うもん払って当り前よ」
ルーハはてへっと笑った。
「ブラン君、あなたもそのうち自分で見てわかるだろうけど。ベッカさんていうのは本当に、わたし達にとっての神さまみたいな人なのよ」
「ぶっちぎりの、いい男ってやつよ!」
みたび、どや顔で言い放つルーハを前に、しかしブランは内心で首を傾げていた。そうか~??
「ほんとにねえ、もうちょい年がいってたら、間違いなく口説いて旦那にしてたんだけど。あんまり若くて育ちが良すぎるよ……。ブラン君、ベッカさんがどうしてお手洗いに行ったかわかる?」
「は……?」
出すべきものを、出す時が来たから行ったのでは?
「あのねー、羽振りがよくって人間のできてるひとは、こうやってそろそろ帰ろうかなぁと言うところで、ひとり静かにお手洗いへ行くもんなのよ。そのついでに、そうっと皆のぶんのお勘定すましちゃって、ごちそうしてもらった人がお代の額を知らないまま、するっと帰れるように準備するのよ」
ひくーい声でルーハにささやかれ、ブランが視線を回すと、……出入口まぎわの勘定台の前で、店のおじさんにうなづいたベッカが、ぷよ・くるうり……とふり向いて、こちらへ帰ってくるところであった。
・ ・ ・ ・ ・
乾物商の店の前で女ふたりと別れ、ベッカとブランは再び市庁舎のある方面へ、路を歩く。
「明日の朝は、七ツ頃に市門前で待ち合わせよう。ファダンまでは半日というところだけど、午後も調査だから、今夜はしっかり早寝するんだよ。書類や費用なんかは全部僕担当だから、ブラン君はなるべく身軽に来なさい。常用してるお薬とかある?」
「ないです。あの、俺、標準装備でいいんですか」
ベッカは、はっとした。そうだった、文官の自分と違ってブランは一応護衛なのだ。
「ああ、そう……そうだね。得物は何を使っているの、長剣?」
「はい。中弓も」
「そう、……それじゃ屋外の戦闘実習に行く感じで、用意して」
本当の戦闘になんて絶対なっちゃいけないのだが、まさか丸腰で連れて行くわけにもいくまいと思い、ベッカは言った。
「今日は最後に、駅馬業者に寄って、明日の予約を入れて行こう」
「えっ、駅馬つかうんですかッ?」
おどろいたブランの声が、きぃーんと高くなった。
「俺、自分の馬もってますよ?」
「そうなの? どうしても慣れてるやつでないと、だめかい?」
「いえ、そうじゃないですけど……」
ベッカは気に留めない風で、うんうんとうなづいた。
「ほら、旅の行程がまだはっきりとはしないでしょ? 馬で行けるところだけとは限らないし、何日もよその厩舎に駐めておくのも、馬がかわいそうだしね……。それに、自分で世話をしなくていいのは楽なんだ。だから経費をばっちり使って、駅馬で行くんだよ」
確かに合理的ではある。しかし自家用馬……貴族の大人全員が、めいめいの馬を所有しているのが一般的なガーティンロー生まれの少年にとっては、少々不思議に感じられた。
駅馬業者の事務所で予約を済ませ、出る。
赤い岩づくりのどっしり厚い市門を後ろに、ベッカはブランを見上げた。
「それじゃ、明日の朝。またここでね」
「あの、ベッカさん」
やっぱり全然“知らない人”の文官に向かって、少年はきまり悪さを感じつつ、……それでも言うことにした。
「今日は、ごちそうさまでした」
さすがに、甘味まで経費で落とすとは思えなかった。
見上げてくるベッカの丸い顔が、ぱかっと笑う。
「ああいうの、好きかい」
「はい。すっっっごいうまかったです」
「よかったね。僕もなんだ」
いまだ打ち解けない仲、知らないどうしの二人である。しかし、共通点をひとつ得たことに何となく安堵して、……それで別れた。