書店令嬢ゾフィさんはお見合いに向かう
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乾燥したしろつめ草の花が敷き詰められた、木箱の中に布包みをそうっと入れて、ゾフィはふーっと溜息をつく。
ていねいに紐を結んで封をして、“補修中 ゾフィ”と大きく書かれた布札が、箱の上でよく見えるようにした。
初夏の日が翳り始めて、キノピーノ書店装丁部の工房の中も、少々薄暗くなってきている。白い作業衣を脱いで、卓の上でたたんでいると、こんこんと扉が叩かれた。
「はい」
父が入って来る。
「おや、終わったところかい? そろそろ時間だから、もうお行き」
「ええ」
窓に錠を下ろし、小さな肩掛け鞄を手に、父と室を出る。
「いったん帰って、うちで着替えるのかね?」
「いいえ、このまま行くわ」
キノピーノ書店の主は、恰幅のよい体をゆらして肩をすくめる。……娘はいつも通りに、青い毛織上衣に細身の黒いふくろ股引。胸もと高めの位置に揺れる小粒の瑠璃石、それ以外に飾りっ気なし、化粧っ気もほぼなしの普段着姿である。
「……お母さんは、あれだけやいやい言ってるけどね。お前が気乗りしないのなら、お断りしたっていいんだよ」
「さすがに直前じゃ失礼でしょう。会うだけ会いますよ」
父の言う通り、ゾフィは今夜のお見合いにも全然気乗りしないのである。
近郊の豪農、お嫁に来てもどうぞ毎日市内へ通って下さいよと言ってくれてはいるが、これはそのうちゾフィが音を上げるだろうと見込んでいるふしがあった。
「……ところで最近、あの文官様の姿を見ないね。ずいぶん足しげく、通って来ていたのに」
廊下を先に歩く父の表情は、娘には見えない。
「ああ、遠方へご出張なんですって」
「ふうん」
父にも自分の顔が見られないのを良いことに、ゾフィはちょいっと頬をゆるめた。
何か月かの間、お昼時によくやって来たその人は、知れば知るほど自分にとって全部が“いいとこ”でできている人だった。
大きな手に合う絹の手袋をちゃんと持参して本に触れるし、紐しおりの挟み方も返却する時の巻き方も、きっちりしていて自分のやり方とよく似ていた。たぶん性格がむちゃくちゃ合う。それに、読書中に机のうしろをそうっとのぞいてみたら、ふわふわ金髪を後ろにくくっているのだ! 本の中に他人の髪が落ちこむのを嫌うゾフィにとっては、感激もののお作法である。
仕事での調べものらしくて、検索を頼まれるのは難しい書物ばかり。その分野は手代のゲール君の方が確実なのだけれど、それでも彼はいつでも自分を指名してきた。
ひょっとして、もしかして……!
そういう期待は、会うたび毎回、裏切られてきた。彼はゾフィに、笑顔をむけない。
いつだって、緊張と不安と……畏怖? みたいなものに支配された、ちょっと怖くて暗い顔で彼女を見る。ぷよんと平和な、大きな顔を引きつらせて。
ちょっとずつ慣れて、ゾフィさんベッカさんと個人名で呼びはするけど、それだけなのだ。
――だから、好かれてるってわけじゃ、ないのでしょうねー。
ベッカさんの笑ったところが見てみたい、とゾフィは思った。
あんなにぷんわりふくよかな丸顔なのだもの、笑えばむちゃくちゃかわいいに決まっている。熊手みたいな手も、まるっこい肩やお腹も、みるからにやわらかくってやさしい。
ブランと来た時、思い切って(失礼にならない程度に)ちょっと触れてみた肘のあたりすら、ふかふかしていたのだから。
――いやー、ありえないわよ。脈はなさそうだし、いい気になっちゃいかんいかん。
内心で苦笑して、キノピーノ令嬢は店内に出る扉、父の後ろに立つ。
――とりあえず笑ってもらえるまで、恋しちゃうのはやめときましょう。
「それじゃ、お父さん。また夜に」
「帰りはちゃんと、送ってもらいなさいよ」
するりと出た。表玄関の先、横の通用扉から夕方の街へ出るつもりだった。
と、そこに。
入り口に一番近い勘定台の前に、深い臙脂色の姿があった。
台を挟んで対応していた、手代のゲール君がふいと彼女に気付いて、声をあげる。
「ああ、お嬢さん」
すーい、ぷよッ……。
ふり向いたその人は、自分を見て笑った。
長い長い間、ずうっと探してきたひと、あいたかった人にようやく会えたという顔で、うれしそうに笑った。
「……」
ゾフィはなんにも言えなくなって、思わず立ち尽くした。
「ゾフィさん、こんばんは」
自分の名を呼ばれて、それではっとする、慌てた。慌てたから、なぜか普通のお客に言うように、“いらっしゃいませ”が出てこなかった。
「お帰りなさい、ベッカさん」
見上げてくるベッカの顔も、はっとした。でも笑ったままだ。
「本当にすみません、出張先からガーティンローに着いたばかりで、こんなよれよれのくたくたなんですけど……、その、ブラン君が今すぐ直行しろと、……えーと」
少ししどろもどろになってから、ふ~・ぷよん! と短く深呼吸、……落ち着いてベッカは言った。
「ゾフィさん。僕と、ごはんを食べに行ってくださいませんか」
「えっ」
「お願いします」
目の前、少し低い位置からまっすぐ見上げて来るまじめなその顔は、だいぶやつれて日に灼けて、……でもやっぱり、やわらかふくよかな笑顔だった!
ゾフィは、自分の頬がかあと火照るのを感じる。
「はいっ」
短くうなづいて、ゾフィは手代の方を振り返る……自分がまっかになっているのは、承知だ。
「ゲールさん。すみませんけど父に、ゾフィは今夜は予定を変えると、伝えてもらえますか?」
「はい、お嬢さん」
それまで勘定台の裏、ひたすら影になることを念じて息も止めかけ、なりゆきを見守っていた手代ゲール君は、低い声で応えてうなづいた! 本を治す装丁職の同僚と、本を大切に読む親切な市職員、彼はどっちも好ましく思っていたのである。
ふたりは店の表玄関を出て行った。
見送ってからもさりげなく素っ気なく、……を装ってじっとり観察していたゲール君は、並んで歩く二人の身長差……ゾフィの方が頭半分背が高い……にも圧倒されていたが、それより何よりゾフィの青い毛織袖が、そろっとベッカの臙脂の腕あたりに触れるのを見て、ぐううと両のこぶしを握りしめた!
――うおおおお! 甘美なる破滅よ! この二人の間には、しばし舞い降りるのを待ちたまへぇぇッッ!
その後方、中央書架に置かれた店の象徴である黒羽の女神の石像が、ちょうどゲール君の背中に羽びんたを突っ込むかたちで、のびのび翼をのばしている。
――あなたも、破滅は作品の中でだけよー?
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初夏の夕暮れ、あたたかい陽光と涼しい風とにつつまれて、ベッカとゾフィは歩いてゆく。
赤いガーティンローの街中を、すいすい楽しげに歩いてゆく。
「ベッカさんが、ごちそうしてくださるの?」
失礼にならない程度に、そうっとさし入れてみた右手、ベッカの肘の中はやっぱり予想通りにふかふかしていた。
「ええ、もちろん。でもゾフィさんの肩が張っちゃうなら、わりかんでも」
「じゃあ、わたしがおごりますから。ついて来て下さる?」
うふふ、とゾフィは微笑した。見上げてくる松葉色のまるい瞳が、……やっぱり笑っている!
「行きましょう。おいしい所なんですね!」
「実は、まだわからないの。評判が良いからずっと行きたかったのですけど、なかなか機会がなくって……。でもベッカさんと一緒なら、思い切って行っちゃうわ。
……“麗しの黒百合亭”って、ごぞんじ?」