ベッカさんみたいな騎士になろう
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「あー、やっと戻ってきたぁ!」
崖に続く岩棚を下り始めた一行に、ゼールが叫んだ。
海の子は仔あざらしを両手に抱いて、すぐ近くのなめらかな岩盤上に乗り上げた小舟の脇に立っている。
「ゼールくーん」
ベッカは大きく手を振る。
「あんな小舟で、こんな遠くまで来たのかいッ?」
ポーム侯が、口をひし形に開けて驚いた。
「ええ、船長が本当に優秀なんです」
じゃぼじゃぼ、だっぽーん!
『ふあー。やれやれ』
『陸って疲れるぅ』
あざらし達は、次々に海水に飛び込み、身体とひげをのびのびさせた。
村の人々が分けてくれた食糧少々、水の革袋とを積みこんで、ベッカとブランも再び海水に浸かった黒い小舟の中に乗り込む。
「それじゃあ皆さん、どうぞお元気で!」
「ありがとうー、イリーのお役人さん」
「良い旅をねー」
「気をつけてなぁ」
「自給自足の守護があらんことをー! フリガン侯ー」
つううう……小舟はすべり出した、あざらし達がすういと周囲を囲む。
岩棚の上、見送りに来たポーム侯とオーリン、村の人々数人がすぐに小さくなる、やがて見えなくなる。
『ゼールや! このまま少し東に行って、ダフィル鼻から帰りの海流にのるからねぇ!』
「わかった!」
ブランとベッカは舟の両側、大きく櫂をこいでいる。漕ぎながら大きな声で話し始めた、風はない。
「いやー、しかしすんごい冒険だったね……、危機一髪というやつだったよ! ゼール君、留守番中に色々きこえた?」
「途切れとぎれに、ちょっとだけ……。あのさ、ベッカさん!」
少し急いたように、ゼールは船尾からどなり返す。
「帰りに、俺んち寄って、手伝って行ってね! 家族みんなに、あのこと話すって決めたからさ!」
「ようしっ、いいとも! ゼール君!」
「何の話ー?」
ブランもどなって、聞き返した。
「俺、名前お母さんの旧姓にもどして! オーラン騎士見習に、なるんだぁッ。そいで大人になったら、沿岸警備隊で働くんだっ! ひもの屋は片手間に手伝って、定年した後に天下りで専務くらいになるよー!」
「いやゼール君、そこまで先取り計画たてなくって良いんだからねー?」
お天気なみに、海の子は人生設計も先読みしている!
「あー、じゃあベッカさーん。俺のもついでに、手伝ってもらっていいですかー」
「は? 君の何を手伝うの、ブラン君?」
「決めましたッ。俺、名前かえて、家を出まーす!」
「何だ、そりゃぁああッッ」
いきなり降ってわいた話題である! ベッカはぎょっとして、黄色い救命胴衣ごとぷよんと揺れた! い、家をでる?
「キーンの家を出て、跡継ぎのいないマグ・イーレのじっちゃん家に、行きますッッ」
「えええ? お母さま方の、実家ってこと?」
「はいッ。ブラン・ナ・キルスに、なりまーす!」
――キルス……? なんか、知ってる名前……。
「ブラン、お前ぇえええええッッッ」
船尾から、すっとんきょうな叫び声が上がる!
「マグ・イーレのキルス、つったー? お前のじっちゃん、まさかああああッッッ」
「フラン・ナ・キルス、騎士団長だようー」
「ぎぃやあああ、オーラン奪回で来てくれた時、ちょこっと見たんだ俺ー! むちゃくそかっけぇえじいさんだったぞううう!」
海の子は口調崩壊、文官騎士は口を四角く開けた。ぷよよよーん!
「ずっと前から言われてて、でも俺、よくわかんなくって……」
自分の気持ちが、である。
快適な自宅で、三番目の子として皆にくるまれた生活をすてるなんて、ブランには想像できなかった。
≪決めるのは、ブラン。お前ですから≫
祖父も祖母も、ただそう言って笑って待っている。……イリー最貧騎士団、最強の祖父が。自分にそっくりだと言われる、その祖父が待っている。
祖父のもとで、ベッカみたいな騎士をめざそう。騎士に、なろう。心の底から、ブランはそう思って決めたのだ。
「マグ・イーレで、修練校に入りなおします。今度は、まじめにやるッ」
「ブラン君……」
「たぶん、これが一番いいと思うんです。俺が、いちばんたくさんの人の、役に立つやり方だって」
――そう、役に立つ方面はたぶん全然ちがうけど……。俺は、ベッカさんみたいな騎士になろう!
唇をきゅうっと引き結んで、舟の片側からこっちを見ている少年は、
……もう少年ではなかった。
「ブラン君、よく決めたよッッ」
ベッカはひょろい青年を、思わずがばりぷよん、と両腕に抱きしめてしまった!
「ぎゃーッッッ」
傾きかける小舟、ゼールの絶叫にすかさずバーべお婆ちゃんがのしりと反対側の舷を支えてくれて、間一髪で転覆は免れた。
・ ・ ・ ・ ・
「みんなー、“ダフィル鼻”って、あれのことー?」
『そうだよ、ゼールやー!』
突き進む一行の眼前に、やがて切り立った黒い崖があらわれた。
岬と呼ぶには短い、しかしまぎれもなく東部大半島の南東先端、地の果てなのだ!
――すごいぞ……! こんな所まで来たイリー人は、恐らくそうとう限られている!
左舷に櫂を扱いながら、ベッカは内心かなり興奮している。
「けど、何でダフィルって言うの。どういう意味?」
『黒い島、という意味にょん。ほれ、右方向みるにょ』
ベッカとブラン、ゼールは、バーべがあごをしゃくった方を見た。
……ずうっとずうっと彼方の、水平線に……。
「なんか、黒い島々がいっぱい見えるね!?」
『そういうことにょん。わたしが変な舟見たとこにょん、東のもんが島々とか島と言う時には、あの辺のことをさすにょ。色んなお話のつまった、島々にょ』
「黒い島々……」
――島?
ベッカは思い当たった。
島。へびが、島へもどった……。
レグリのみおな色てがらに記されていた“島”とは、あれのうちどれかを指していたのだろうか……?
ベッカはブランと視線をあわせた。少年、……じゃなかった、青年もやはり同じことを思ったらしい。
「……それは、そこへ行くのは、僕の仕事じゃない」
低い声で言う。ブランはうなづいた。
「けれど、ここまでの全ての記録と経験とを持ち帰って。……そこへ行くべき、誰かに託さねば」
『さあ、まがるようー!』
先頭をゆくナノカがどなった。ぐうううっ、あざらし達は大きく右へと旋回してゆく、黒い小舟もぐるりとそれについてゆく。
ゼールがすばやく帆を操って、西向きに流れる海流は、六頭と一艘をやさしく抱いて走り始めた。
みどりの空にくっきりとそそり立つ、黒い崖がぐんぐん背後に小さくなる。青くきらめく水平線の彼方に、黒い島々もかすれた。
「さようなら、東の果て!」
ブランが朗らかにどなる。そう、“ブリージ”とは正イリー語で言う東の果て。
「さあ……、西へ帰ろう!」
ベッカもどなった。
お腹の底から気持ちよく、ぷよんとおにくを弾ませて、笑顔で叫んだ。