良かった、ベッカは詰まらず脱出できた!
崖の上、あっと言う間に、先ほどの忌まわしい古井戸が見えてきた。
「あれっ!?」
その前、ぎくりとしたように立ち上がった男が二人いる。
気がつかなかった、一応見張りがいたらしい。
あざらしの群れに、その東部ブリージ系の中年二人は明らかに及び腰である。さっと走り去ってゆく。
――村へ、応援を呼びに行く気だなっ。
ぎっとそいつらの後ろ姿を睨みつけてから、ブランはぐいっと古井戸の木蓋を押しのけた。
「ベッカさぁぁぁん!!」
「うえっ、早かったね? ブラン君ッ」
ぎょっとした声が、下から響いて来る。
「縄を下ろしますから、体にしっかり巻き付けてくださいッ」
言ってるうちから、ブランは肩掛けに持ってきたゼールの舟の縄を下ろして、その端を暗い穴の中に放る。あざらし達が、ぐるりと古井戸を取り囲んだ。
「えーっと! ブラン君ッ、ちょっと問題が!」
暗い穴底から、困惑の声が届く。
「何ですかッ」
「この縄、大丈夫かなーっ。僕の体重支えるには、ちょっときゃしゃじゃないかねぇ!?」
「……」
ブランは穴の中の暗闇と、自分の手の中の縄の片端とを見比べた。……たしかに!
『大丈夫だよブラン、ベッカ』
低ーくどすのきいた声で言いつつ、ナノカが穴をのぞきこむ。
かがみ込んだその上半身が、ぞろりと変化して人間の女になる! 変容の怪異を間近に初めて見たブランは、どきりとした。
「ベッカ、あたしの髪もぐるぐる体に巻き付けて」
どさりっ!
濡れた昆布のような黒ぐろした髪を、穴の中に投げ入れた。
ずるりとそれは下に落ちたようだ……長ッ!
「ええーっ、そんなことをしたら、ナノカさんの頭皮が危機に見舞われてしまうッ」
「妖精こんぶ髪は丈夫なのよ、早くおしッ」
有無を言わせない、むちゃくちゃ怖い声だ!
「わ、わかりましたっ……。はい、巻き付けましたよう!」
「うおーし! 皆、引っぱれえッッ」
人間姿のナノカは、腰を低く落として、ぐういと後ろ向きに後じさる! 彼女が握りしめた髪の束に、にゅうっとたくさんの別の手がのびる。
「えっ?」
縄を引っ張りながら、ブランはまたしてもどきどきりとした。
海藻じみた髪のおばさん達がたくさん、ナノカの髪綱を引っ張っている!
あざらし女たちが全員、人間の姿に変化しているのだ。
「せーのッッッ」
「よおい、しょうーッッ!!」
ぐうーっ! すごい勢いの一本抜きだ。ぎゅうんと髪が引っ張られ、穴の縁にひょいとベッカが顔を出す!
「あああっ」
ブランが胸のあたりをがしり・ぷよんと支えた、お尻のあたりを小柄なバーべお婆ちゃん人間版が支えて、ベッカは井戸縁からまろび出た……!
「ベッカさああん!!」
「ぶじにょーん」
ひょろひょろ少年としわしわ老婆に左右からぎゅう抱きされて、ベッカは目をぱちぱちさせながら笑う。
「無事ですよ、お婆ちゃま。ブラン君、きみの色々も持ってきたよ!」
ナノカのこんぶ髪と縄を解き、ベッカは背中に引っかけた中弓と矢筒、長剣を外してブランに手渡す。
「皆さん、本当にありがとう」
「ベッカ君!」
「ベッカー!」
「さあ、さっさと逃げましょう。偽ものの精霊使いなんかに、用はありません」
「……向こうは、あるみたいだぞい」
頭の上のおだんご(今は結い髪になっている)をふるふるさせて、ハムアおばさんが言った。
振り返った先。
集落の方から、二十数人の男たちが近づいてきていた。
皆、手に手に長短の武器を携えている……!!