探偵事務所の新しい法典、あるいは右腕の正しい使い方
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
「……これより、第1回『阿武隈探偵事務所・新生活維持会議』を執り行います」
事務所の円卓を囲み、早乙女星が神妙な面持ちで宣言した。 テーブルの上には、八千代によって美しく清書された一冊のノート――通称『事務所法典』が置かれている。
「……何だよ、仰々しいな。俺は今まで通りで構わねえぞ」
遼司がソファで深く腰掛け、タバコ(電子データ)をふかそうとした瞬間。
「あ、あなた。禁煙、とは言いませんが、換気扇の下以外での喫煙は『一回につき皿洗い一週間』の刑ですよ?」
若返った八千代が、エプロンのポケットから小さなホイッスルを取り出し、ピピーッと鳴らした。
「げっ……。そんなルール、いつの間に……」
「昨日、星さんとケン太君と相談して決めました。この事務所、少し男臭すぎますもの」
八千代の笑顔は、かつての老婦人の時よりもどこか「圧」がある。若々しい容姿に、熟練の主婦の知恵が加わった今の彼女は、実質的に事務所の頂点に君臨していた。
「賛成です! 局長の脱ぎっぱなしの靴下も、現行犯逮捕の対象になりましたからね!」 星がガッツポーズを作る。
「師匠、僕も協力します! お姉さんが決めたルールは絶対だって、母ちゃんも言ってたし!」 ケン太も、すっかり八千代陣営に寝返っていた。
「……四面楚歌かよ」
遼司は肩を落とし、すごすごと換気扇の下へ移動した。
『報告。……兄さんのバイタルデータに「敗北感」を検知。同時に、家庭内順位が最下位に固定されたことを確認しました』
「……カイン。お前、たまには味方しろよ」
『否定。私は合理的判断に基づき、生存戦略として最も有力な個体(八千代)に従属することを選択しました。……ちなみに、今の私は「掃除機モード」に換装可能です』
「掃除機だと?」
カインが変形し、右手の指先から超小型の吸引ノズルが飛び出した。 以前は神々を貫いたパイルバンカーが、今ではサッシの隙間の埃を吸い取るための「便利な生活家電」と化していた。
「あら、助かるわカインさん。ついでにソファの裏もお願いね」
『了解。……吸引力、最大。全エネルギーの0.5%を使用し、微細な塵を殲滅します』
ウィィィィィン……と、軽快な音を立てて掃除を始めるカイン。 かつての最終兵器が、今や最高の家事手伝いだった。
「……平和だなぁ」
遼司は換気扇の下で煙を吐き出しながら、その光景を眺めた。 世界を滅ぼそうとした「予言者」や「黒い太陽」との戦いが嘘のようだ。 だが、この「下らないことで言い合う時間」こそが、命を懸けて守り抜いた報酬なのだと、遼司は噛み締めていた。
「ところで、ケン太。お前、最近顔つきが変わったな」
遼司の言葉に、ケン太がピシッと姿勢を正した。
「えへへ、わかりますか? 実は、お姉さんに内緒で特訓してもらってるんです」
「八千代に?」
「はい。探偵は、拳や銃だけじゃダメだって。相手の心を開くための『おもてなしの作法』と『美味しいお茶の淹れ方』……これぞ、阿武隈流の秘技だって!」
「……それ、俺が教えた覚えねえぞ」
「あら、あなた。お客様が一番求めているのは、解決策だけじゃなくて『安らぎ』でしょう? それを提供できてこそ一人前です」
八千代が、出来立てのレモンティーを遼司の前に置いた。 蜂蜜の甘い香りが広がる。
「……確かに、一理あるな」
遼司は一口飲み、その温かさに目を細めた。
「よし、ケン太。その『秘技』とやら、極めてみせろ。……それから、午後からの迷子犬探し、お前が仕切れ。俺は、後ろで見ててやる」
「はい! 頑張ります、師匠!」
元気よく飛び出していくケン太。 それを追いかける星。 掃除を終えて満足げに親指を立てるカイン。
「……さて。俺も、少しは法典を守る努力をすっかな」
「ええ。期待していますよ、あなた」
八千代は、遼司のネクタイを優しく直した。 若返った妻の指先が触れるたび、遼司の心拍数が跳ね上がる。 70年以上の付き合いなのに、まるで初恋のような、あるいはそれ以上に深い、不思議な感覚。
アトランティアの昼下がり。 探偵事務所の窓からは、今日も笑い声が漏れていた。 神様も羨むような、完璧に不完全で、騒がしい日常。
物語の最終幕へ向けて、彼らは一歩ずつ、けれど確かに「幸せのスタンプ」を積み重ねていた。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




