黄ばんだ栞と、物語の続き
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
「……探偵さん。あんた、いいカミさんを捕まえたな」
第5区画、神保町を模した「古書店街」。 高く積み上げられた本に囲まれた店内で、店主の源さんが、カウンター越しにコーヒーを啜りながら呟いた。
「へっ。……俺が捕まった方だよ」
遼司は、隣で興味深そうに古い詩集をめくっている八千代を見やり、肩をすくめた。 今日は非番の日。八千代の「アトランティア市をもっと知りたい」というリクエストに応え、かつて世話になった知人を訪ね歩いているのだ。
「源さん、以前はお世話になりました。主人が無茶を言ったでしょう?」
八千代が上品に微笑むと、源さんは照れくさそうに頭を掻いた。
「いやぁ、無茶どころか、おかげで俺の凍りついてた本棚が動き出したんだ。……あの時の『一冊』のおかげでね」
源さんは嘗て失くした「亡き妻の形見の栞」を遼司に見つけてもらった。 以来、彼は「本の中に逃げ込む」のではなく、「本と共に生きる」ようになったのだ。
「……それで、今日は相談があるんだ」
源さんが、カウンターの下から古びたハードカバーのノートを取り出した。 表紙には文字がなく、革が擦り切れている。
「これは?」
「妻が書いていた、未完の小説さ。……最後の一行だけが、白紙なんだ」
源さんは、そのページを開いた。 丁寧な万年筆の文字で綴られた物語。しかし、最後の結末だけが、インクの跡もなく途切れている。
「これを、完成させてほしいのか? 俺は探偵であって、小説家じゃねえぞ」
「違う。……妻は死ぬ間際、こう言ったんだ。『最後の一行は、あなたが一番幸せな時に書き足してね』ってな」
源さんの瞳が、本棚の隙間から差し込む光に揺れた。
「……だが、俺にはまだ書けねえ。幸せってのが、何だったのか……あの栞を見つけた時、分かったつもりでいたんだが。八千代さんの帰還を見たら、また分からなくなっちまってな」
愛する人が、物理的な死を超えて帰ってくる。 そんな奇跡を目の当たりにした源さんは、自分の「思い出」という結末に迷いが生じていた。
「……源さん。一丁前に、理屈で幸せを考えようとしてるな」
遼司は、源さんの前のノートを指で叩いた。
「幸せなんてのは、後から気づくもんだ。……今、こうしてあんたが、俺たちの惚気を聞かされながら、不味いコーヒーを飲んでる。……それも一つの形なんじゃねえのか?」
「……不味いとは失礼な」
源さんは苦笑いしたが、その目は少しだけ優しくなった。
「八千代さん。……貴女なら、なんて書きますか?」
源さんの問いに、八千代はノートの白紙のページを、愛おしそうに撫でた。
「そうですね……。私なら、『物語は終わらない』ではなく……『次のページは、明日めくりましょう』と書くかしら」
「次のページを、明日……」
「ええ。結末を急ぐ必要はありません。源さんが毎日お店を開いて、誰かと出会って、美味しいコーヒーを淹れようと努力する。……その一日一日が、最後の一行を書き換えていくはずですから」
八千代の言葉に、源さんはしばらく沈黙した。 そして、ゆっくりと万年筆を手に取った。
「……ああ。そうだな。……結末は、まだ早すぎる」
源さんは、白紙のページにペンを走らせることはしなかった。 代わりに、以前遼司が見つけてやった「思い出の栞」を、そのページに挟み込んだ。
「最後の一行は、もう少し先にするよ。……俺も、もう少しだけ、この街の『続き』を見ていたくなった」
源さんは、ノートを大切そうに閉じた。
「……さて。お礼に、とっておきの古本をプレゼントしよう。……『不器用な男が、美人の妻にひれ伏す話』なんてどうだ?」
「おい、そんな本があるなら焚き火にくべてやる」
遼司の毒舌に、八千代が鈴を転がすように笑った。
店を出ると、古書店街には夕闇が迫っていた。 街灯が灯り、紙の匂いが夜風に乗って流れてくる。
「……あなた。源さん、素敵な顔をしていましたね」
「ああ。……あいつも、やっと『今』を生き始めたんだな」
遼司は八千代の手を引き、歩き出した。 二人の足元には、長く伸びた影が重なり合っている。
「……結末なんて、いらねえよな」
「ええ。……明日も、その次も。私たちが一緒にいれば、それが最高の物語ですから」
アトランティアの夜空には、偽物の、けれど美しい星々が輝き始めていた。 それは、誰かの「続き」を優しく見守る、希望の灯火だった。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




