一番長い「ただいま」と、約束の将棋盤
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
アトランティア市の中央駅地下。 改札口から溢れ出していた光が、ゆっくりと収束していく。
その光の中心から、一つの人影が歩み出てきた。
カツ、カツ、カツ。
ヒールの音が、静寂なホームに響く。 遼司は、息をするのも忘れてその姿を見つめた。
霧が晴れるように光が薄れ、彼女の姿が露わになる。
そこに立っていたのは、いつもの事務服姿の八千代――ではなかった。 淡い桜色のワンピースに、白いカーディガン。 髪は艶やかで、肌は透き通るように白い。 それは、約70年前、遼司が一番好きだった頃の、若き日の妻・初喜の姿そのものだった。
「……あなた」
彼女が、鈴を転がすような声で呼んだ。 その身体には、もうノイズも、透明化の兆候もない。 確かな「質量」と「命」を持って、そこに存在している。
遼司は、一歩足を踏み出そうとして、足がもつれそうになった。 膝が震えている。 神話生物と戦った時でさえ、こんなに震えたことはなかったのに。
「……遅えよ」
遼司は、やっとの思いで声を絞り出した。
「待ちくたびれたぞ。……ばあさん」
「ふふっ。……ごめんなさい。ちょっと、長話をしてしまって」
八千代は、涙をいっぱいに溜めて微笑んだ。 そして、駆け出した。 少女のように軽やかに、遼司の元へと。
「……ただいま! あなた!」
「……おかえり! 八千代!」
ドサッ。
八千代が遼司の胸に飛び込む。 遼司は彼女を強く、強く抱きしめた。 温かい。柔らかい。 そして、心臓の音がする。 現実世界の肉体は滅びても、彼女の魂はここで、永遠の命を得て新生したのだ。
「……よく、帰ってきてくれた」
遼司は、八千代の髪に顔を埋めて男泣きした。 探偵の威厳も、ハードボイルドな設定も、もうどうでもよかった。 ただ、愛する妻が腕の中にいる。それだけで十分だった。
「はい。……約束しましたから」
八千代は、遼司の背中を優しく撫でた。
「それに……伝言を預かってきました」
「伝言?」
八千代は、少し身体を離して、遼司の目を見つめた。
「哲人君からです。『僕もいつかそっちに行くから、将棋の盤を用意して待っててくれ』って」
その言葉を聞いた瞬間、遼司の顔がくしゃくしゃに歪んだ。
「……あの、馬鹿野郎」
遼司は空(天井)を見上げた。 そこには見えないけれど、現実世界で泣いているであろう孫の顔が浮かんだ。
「……上等だ。何十年でも待ってやる。……その間に、腕を磨いておけってな」
遼司は鼻をすすり、ニカっと笑った。 それは、祖父としての、そして、育ての父親としての、最高の笑顔だった。
「おーい! 局長! 八千代さーん!」 「お姉さーん!!」
改札の外から、星とケン太が駆け込んでくる。 二人は抱き合う夫婦を見て、もらい泣きしながら飛びついてきた。
「よかった……! 本当によかった……!」 「うわあぁぁぁん! お姉さん、お化けになってない! 足がある!」
「もう、ケン太君ったら。……ただいま、二人とも」
八千代は、星とケン太もまとめて抱きしめた。 四人が一つの団子になって、泣いて、笑っている。 それは、SAGA SAGAで一番温かい「家族」の風景だった。
***
地上に出ると、アトランティア市は夜明けを迎えていた。 朝の光が、街を黄金色に染め上げていく。
「わあ……!」
駅前広場には、大勢の人々が集まっていた。 古書店街の源さん、写真家の写楽、公園のミナ、そして花火師の鍵屋。 遼司たちがこれまで助けてきたNPCや住人たちが、花束を持って待っていたのだ。
「おかえりなさい!」 「待ってたよ!」
割れんばかりの拍手と歓声。 空からは、色とりどりの紙吹雪(星が用意した演出用データ)が舞い落ちる。
「……あらあら。すごい歓迎ですね」 八千代が驚いて口元を押さえる。
「へっ。……人気者は辛えな」 遼司は照れくさそうに帽子を目深に被った。
その人垣の後ろで、オーナー・憂が静かに微笑んでいた。 彼女の隣には、美琴たち前線cafeの店員も並んでいる。
「お疲れ様、二人とも」
憂が歩み寄り、八千代に大きな花束を渡した。 それは、現実世界の病院に飾られていた花と、同じ種類の花だった。
「新しい人生の始まりよ。……これからは、ずっと一緒ね。これで哲ちゃんもホッとするわ。」
「はい。……ありがとうございます、憂さん(オーナー)」
八千代は深く頭を下げた。 憂は、満足そうに頷き、遼司にウインクした。
「さあ、帰りましょう。……とびきりの朝ごはんが待ってるわよ」
「……ああ。帰ろう」
遼司は、八千代の手を取った。 もう、その手は冷たくない。 消えることも、震えることもない。 しっかりと握り返してくる、確かな温度。
「行くぞ、八千代。……阿武隈探偵事務所へ」
「はい、局長!」
二人は並んで歩き出した。 歓声の中、光の射す方へ。
その背中には、もう悲壮感はない。 あるのは、これから始まる「永遠の日常」への希望だけ。
長い長い旅路の果てに、郵便局員とその妻は、ついに「我が家」へと辿り着いたのだ。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




