ブラックコーヒー
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
私は静かな裏路地を戻り、古ぼけた『阿武隈探偵事務所』の看板が掲げられた建物へと入った。一歩足を踏み入れると、埃っぽい畳と、古びた木材の匂いがした。外から見たまま、ここは古い格闘技の道場か、あるいは時代の止まった事務所のようなたたずまいだ。
「お帰りなさいませ、遼司さん。」
道場の隅、古びた衝立の後ろから、八千代さんが姿を現した。彼女は、先程と同じく一昔前の事務服姿だが、その背後から発せられる空気が、先程までの無防備な外見とはまるで違っていた。
「迅速な鎮圧、ご苦労様でした。やはり、あなたのホムンクルスとの同期は完璧ですね。」
「正直、身体が勝手に動いた感覚です。あのNPC、南崎という男は、一体どういう……」
「その分析は、地下施設に戻ってからにしましょう。」八千代さんは私の言葉を遮り、道場の中央へと進んだ。
道場の中心部、畳が敷かれた床の真ん中に、八千代さんは手をかざした。すると、古びていたはずの畳の一部が、電子的な駆動音と共にスライドし始めた。その下から現れたのは、磨き上げられた金属のフロアと、中央に設置された、カプセルのような形状をしたエレベーターだった。
「さあ、こちらへ。この道場は、最高の技術で偽装された『ロック機構』です。外から見れば、ただのオンボロ道場ですが、地下には何十層にもわたって、あなたのための設備が整っています。」
八千代さんの言葉に、私はただ呆然とするしかなかった。外の世界が急速に情報化社会に変貌したというが、この技術力は、私の生きていた時代からすれば、まさに夢物語だ。私は八千代さんに続いてカプセル型の乗り物へと足を踏み入れた。
八千代さんが操作盤に手をかざすと、エレベーターは瞬時に下降を始めた。通常の下降音は一切なく、耳鳴りすらしないほどの静けさだ。
「あなたが生きていた時代、つまり30年前には、このような技術はまだSFの世界だったでしょうね。」八千代さんが私に優しく語りかける。
「ええ、まさに。私は死ぬまで、自宅の電話すらろくに扱えなかった人間ですよ。」
「ですが、その時代を懸命に生きたあなたの『記憶』が、この世界の土台なのです。……ところで、遼司さん。最初の任務を終えて、何か身体の不調はありませんか?水を飲みますか?それとも、何か温かいものの方が……コーヒーは、ブラックがお好みでしたよね?」
八千代さんは、ハッと息を飲むような微かな表情を浮かべた。その一瞬の動揺は、すぐに事務的な冷静さに戻ったが、私は聞き逃さなかった。
(コーヒーの好み……ブラックを好むなどと、私は誰にも話したことはないはずだが……)
私は、このホムンクルスの身体には感情がない。だからこそ、八千代さんの過剰なまでの気遣いに、妙な引っかかりを覚えた。しかし、それを追求することは、私の『ハードボイルドな探偵』という設定を破ることになりかねない。
「温かいブラックを頼む。ありがとう、八千代。」
あえて、設定に沿って冷たく言い放つと、八千代さんは安堵したように微笑んだ。
「承知いたしました。では、最初にお会いいただくのは、あなたの補佐役の一人です。」
エレベーターが最下層に到着した。扉が開くと、そこは巨大な円形の空間だった。壁一面には無数のスクリーンが設置され、数えきれないほどのケーブルが複雑に絡み合い、この世界のあらゆる情報をリアルタイムで解析しているのが分かった。ここが、特別神務機関局『SGMA』の中枢だ。
その空間の中央、巨大なホログラムの地球儀のようなものの前に、一人の青年が立っていた。
黒のタートルネックに白衣を羽織ったその青年は、私とほとんど同じ年齢に見えるが、その顔には一切の感情が読み取れない。彼が、私が知る未来の世界の科学者、あるいは、孫が設計したシステムの一部なのだろうか。
「佐伯 智春です。システム情報分析と、兵装のメンテナンスを担当しています。局長、初の任務遂行おめでとうございます。」
青年は淡々と私に挨拶をした。その声は、電子合成音のように平坦で、まるで彼自身が人間ではなく、NPCであるかのように感じさせた。
「君が、私の補佐役か。」
「ええ。佐伯は、このSGMAの全ての情報と、局長であるあなたの戦闘データを解析し、任務の効率を最大限に高めるためのアドバイスを提供します。感情論や非効率な行動は排除しますので、ご協力ください。」八千代さんが間に入り、佐伯の役割を説明した。
佐伯は、八千代さんの言葉に頷くと、私の身体を一瞥し、冷静な口調で続けた。
「遼司局長。先程の鎮圧は成功しましたが、一点、非効率な行動がありました。ターゲットはNPCでありながら、あなたは発砲前に**『おい、何をやってる。』と、不要な呼びかけ**を行っています。これは、敵に位置を知らせる行為であり、鎮圧時間を2.3秒延長させました。」
論理的で完璧な指摘。私の身体には感情はないはずだが、その言葉は、まるで過去の私が、仕事でミスを指摘された時のような、微かな不快感をもたらした。
「それは……探偵という設定を演じたに過ぎない。」私がそう答えると、佐伯はぴくりとも表情を変えずに反論した。
「探偵という設定は、プレイヤーを欺くための表層的な設定です。SGMAの内部では、効率こそが正義です。次回からは、目標を確認次第、迷わず鎮圧を実行してください。これが、今回の任務の教訓です。」
八千代さんが、佐伯と私の間に割って入った。彼女の手には、湯気を立てる温かいコーヒーが握られていた。
「佐伯、その話は後です。遼司さんはまだ転生したばかりで、感覚の調整が必要です。局長、どうぞ。」
私は八千代さんからコーヒーを受け取った。温かいマグカップの感触。そして、その苦味と香りが、わずかに、私のかつての人生を思い出させた。
八千代さんは、佐伯に気づかれないように、一瞬だけ私に微笑みかけた。その笑顔には、秘書としての顔ではなく、**「頑張っているわね」**と語りかけるような、妻の優しい面影が宿っているように、私には見えたのだった。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。




