予行演習と、少し苦いコーヒー
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
「……師匠! 今日のコーヒーです!」
阿武隈探偵事務所の朝。 ケン太が、なみなみと注がれたマグカップを運んできた。 その表情は真剣そのものだ。八千代がいない今、彼女の代わりを務めようと必死なのだ。
「おう。……頂くか」
遼司はカップを受け取り、一口すすった。
「……ッ」
苦い。 そして、酸っぱい。 豆の挽き方が粗いのか、お湯の温度が高いのか。八千代の淹れる、あの深みのある味とは似ても似つかない。
「……どうですか?」 ケン太が不安そうに覗き込む。
「……ああ。目が覚める味だ」
遼司は顔をしかめるのを堪え、飲み込んだ。 不味いとは言えない。この一杯には、少年の精一杯の「背伸び」が詰まっているからだ。
「よし! 明日はもっと上手く淹れます!」
ケン太が嬉しそうにキッチンへ戻っていく。 その背中を見送りながら、遼司はそっと水で口直しをした。
「……無理なさらないでくださいよ、局長」 星が苦笑いしながら、自分の分のコーヒーに大量の砂糖とミルクを投入している。
「うるせえ。……あいつも頑張ってんだ」
その時、事務所のドアが静かに開いた。
「あら。賑やかな朝ね」
入ってきたのは、エプロン姿ではない、珍しくシックなワンピースを着た女性――オーナー・憂だった。
「オーナー? カフェはいいのか?」
「今日は臨時休業よ。……ちょっと、報告に来たの」
憂はソファに座り、遼司に向き合った。 その瞳には、慈愛と、少しの寂しさが宿っている。
「向こう(現実世界)の様子……ですよね」
遼司が尋ねると、憂は静かに頷いた。
「ええ。……お義祖母様(八千代)、意識を取り戻して、みんなとお話できたわ」
「そうか……!」
遼司は、膝の上で拳を握りしめた。 間に合った。彼女の賭けは勝ったのだ。
「哲ちゃ…ふふっ…哲人さんも……泣いて喜んでいました。貴方の伝言も、ちゃんと届いたみたいよ」
「……へっ。泣き虫なのは変わってねえな、あいつ」
遼司は鼻をこすったが、その目尻も熱くなっていた。 自分の言葉が、30年の時を超えて孫に届いた。 それだけで、胸がいっぱいだった。
「それで……あいつは、いつ帰ってくる?」
「もうすぐよ。……今は、家族との最後の時間を過ごしているわ。それが終われば……」
憂は言葉を切った。 それが意味することは、現実世界における「肉体の死」だ。
その時。
ズズズズズ……。
事務所が、微かに揺れた。 地震ではない。空間そのものが軋むような、不快な振動。
『警告。第33区画「中央駅」地下にて、空間座標の変動を検知。……ゲートが「閉塞」しようとしています』
右腕のカインが、緊急アラートを発した。
「閉塞だと!?」
遼司が立ち上がる。
「ええ。……この世界(SAGA SAGA)は、傷ついたデータを自動修復する機能があるわ。あの日、貴方たちが無理やりこじ開けた『現実への風穴』を、傷口だと認識して塞ごうとしているのよ」
憂が淡々と説明する。
「ふざけんな! あそこが塞がったら、八千代が帰ってこれねえだろうが!」
「そうね。……だから、止めに行かなくちゃ」
憂は立ち上がり、遼司にウインクした。
「行きましょう、お義祖父様。……お迎えの準備運動には丁度いいわ」
***
中央駅、地下ホーム。 そこは、青白い光の粒子が吹雪のように舞い荒れていた。
「修復プログラム」が、壁や天井から滲み出し、八千代が通った改札口を埋め尽くそうとしている。 光の壁が、徐々に厚みを増していく。
「……チッ。余計な気を利かせやがって!」
遼司は現場に到着するなり、右腕を展開した。
「カイン! ジャッキアップだ! こじ開けろ!」
『了解。……アンカー射出!』
遼司の右腕から光の杭が打ち出され、閉まりかけた改札口の四隅に突き刺さる。 ギギギギギ……ッ! 凄まじい力が拮抗し、火花が散る。
「星! ケン太! 修復プログラムの『供給源』を叩け!」
「御意! 光の蔦を断ち切ります!」 星が舞い、壁から伸びる光の触手を切り刻む。
「僕だって! ……行け、ビリビリ弾!」 ケン太もパチンコで援護射撃を行い、プログラムの進行を遅らせる。
だが、世界の修復力は圧倒的だった。 杭が軋み、遼司の足が地面を削って後退する。
「ぐぅ……ッ! 重てえ……! これが、世界の『治癒力』かよ……!」
「手伝うわ」
憂が、遼司の隣に立った。 彼女は、何も持たない素手で、閉まりゆく空間に触れた。
「……痛くないわよ。怖くないわよ。……だから、もう少しだけ開けていて」
憂が、まるで子供をあやすように囁く。 すると、荒れ狂っていた光の吹雪が、ふっと凪いだ。 強引な修復の力が弱まり、改札口が安定を取り戻す。
「……すげえ。何をしたんだ?」
「ただの『説得』よ。……この世界は、哲人さんと私達が作ったものだもの。ショロトルちゃんやバステトちゃんもこの世界を一緒に創造したの。私の言うことなら、聞いてくれるわ」
憂は、愛おしそうに壁を撫でた。 全能の神としてではなく、SAGASAGAという仮想現実世界を創造した哲人の妻としての優しい力。
「……助かったぜ、オーナー」
遼司は右腕の力を抜き、息を整えた。 改札口は、再び静かに口を開け、向こう側からの来訪者を待っている。
「でも、長くは持たないわ。……次に閉まろうとする時は、もっと強い力が働く。その時こそが、本当の『お迎え』の時よ」
「ああ。分かってる」
遼司は、改札の向こうにある光のトンネルを見つめた。 あちら側では今、哲人が、家族が、初喜を見送ろうとしている。 そしてこちら側では、俺たちが彼女を迎えるために踏ん張っている。
二つの世界が、一人の女性の魂を通して繋がっている。
「……帰ろう。準備は万端だ」
遼司は振り返り、星とケン太に合図した。
「ケン太。……帰ったら、コーヒーの淹れ方、教えてやるよ」
「えっ! 本当!?」
「ああ。……八千代が帰ってきた時に、不味いコーヒーじゃ格好がつかねえからな」
「うん! 僕、頑張る!」
ケン太の笑顔が弾ける。 星も、「練習台には私がなりますよ」と笑った。
憂は、そんな彼らを微笑ましく見守りながら、小さく呟いた。
「……いい家族ね、お義祖母様」
アトランティアの空は、夕暮れを迎えていた。 その色は、切なく、けれど温かい「再会」の色をしていた。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




