二人分の朝食と、一人の食卓
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
朝。 阿武隈探偵事務所のキッチンに、トントントン……と、リズミカルな包丁の音が響く。
「……おはよう、局長」
星が眠い目を擦りながら起きてきた。 彼女は、キッチンに立つ遼司の背中を見て、一瞬だけ寂しそうな顔をした。 以前なら、そこに八千代がいたからだ。
「おう。もうすぐ出来るぞ」
遼司は振り返らずに言った。 フライパンの上で、目玉焼きがジュージューと音を立てている。 二つ。 綺麗に焼けた目玉焼きが二つ。
「……局長。また、二人分作っちゃいましたか?」
星がテーブルを指差す。 そこには、遼司の席と――空席になった八千代の席に、二人分の食事が並べられていた。
「……ああ。癖でな」
遼司は苦笑いして、フライパンを火から下ろした。 頭では分かっている。 彼女はもう、ここにはいない。 現実世界へ旅立ったのだと。
だが、身体が覚えているのだ。 30年間、現実世界で彼女が彼を待ち続けた記憶と。 この世界で再会し、共に過ごした日々の記憶が。
「いただきましょう。……八千代殿も、きっと向こうでお腹を空かせているはずですから」
星は、八千代の席に座った。 そして、手を合わせて「いただきます」と言った。
「……そうだな」
遼司も席につき、箸を手に取った。 一人ではない。 星がいて、ケン太がいる。 そして、目に見えなくても、八千代の気配がこの事務所には染み付いている。
カランコロン。
「おはようございまーす!」
ケン太が元気よく飛び込んできた。 ランドセルを放り出し、キッチンへ走る。
「師匠! 今日の朝ごはんは!?」
「目玉焼きだ。……ほら、余ってる分を食え」
遼司は、八千代の席にあった皿をケン太に差し出した。
「わーい! いただきまーす!」
ケン太が美味しそうに頬張る姿を見て、遼司の胸のつかえが少しだけ取れた気がした。 彼女が残した「日常」は、こうして受け継がれている。
『報告。……第12区画にて、軽微なデータエラーを検知。NPCの挙動ループです』
右腕のカインが、事務的な口調で告げる。
「……食ったら行くぞ。仕事だ」
遼司は立ち上がり、コーヒーを一気に飲み干した。 苦い。 八千代が淹れてくれたコーヒーとは違う、ただの苦い液体。
(……早く帰ってこいよ、八千代)
遼司は心の中で呟き、帽子を被った。 今日もまた、彼女のいない一日が始まる。 だが、それは決して「空っぽ」な一日ではない。 彼女が帰ってくる未来へ続く、大切な一日なのだ。
***
第12区画、公園。 そこでは、一人の老人がベンチに座り、同じ動作を繰り返していた。 本を開き、空を見上げ、また本を開く。 その繰り返し。
「……ループしてるな」
遼司が近づくと、老人は虚ろな目で呟いた。
「……妻は、どこだ? ……今日は、待ち合わせなんだ」
老人の情動データには、「喪失感」と「待つことへの執着」がこびりついている。 彼もまた、大切な人を失い、その事実を受け入れられずに時を止めてしまった「迷子」なのだ。
「……じいさん。奥さんは、もう来ねえよ」
遼司は、老人の隣に座った。
「でも、心配すんな。……待ってりゃ、いつか会える」
遼司は、自分の胸ポケットから、八千代の写真を取り出した。
「俺も待ってるんだ。……とびきりの美人が、帰ってくるのをな」
老人は、遼司の写真を見て、少しだけ正気を取り戻したようだった。
「……そうか。あんたも、待ってるのか」
「ああ。……だから、一緒に待とうぜ。時間はかかるかもしれねえが……待ってる時間は、案外悪くねえもんだ」
遼司の言葉に、老人のループが解けた。 彼は本を閉じ、穏やかに微笑んだ。
「……そうだな。気長に待つとするか」
老人の姿が、光の粒子となって消えていく。 彼は成仏したのだ。 「待つ」という行為に、希望を見出したことで。
『……解決。情動データの浄化を確認』
「……行くぞ」
遼司は立ち上がった。 空を見上げると、SAGA SAGAの青空が広がっている。 その向こう側にいる妻へ、届くように。
「……今日も、愛してるぜ」
小さく呟き、遼司は歩き出した。 その足取りは、昨日よりも少しだけ軽かった。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




