白い病室と、お土産話
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
現実世界。 消毒液の匂いが漂う、白い病室。
「……う、ん……」
長い間、深い森の底に沈んでいた意識が、水面に浮かび上がるように覚醒した。 瞼を開けると、そこには見慣れない天井と、窓から差し込む優しい陽光があった。
「……祖母ちゃん? ……初喜祖母ちゃん!」
耳元で、震える声がした。 とても懐かしい声。
初喜――SAGA SAGAでの八千代――は、ゆっくりと首を動かした。 ベッドの脇に、壮年の男性が座っていた。 見覚えのある顔だが流れた月日には抗えない。男性は目には涙を溜めているのが分かる。
「……哲人、君?」
その呼び名に、壮年の男性は目を見開いた。 彼は、初喜と夫である哲信が愛した孫――緒妻哲人だった。
「ああ、そうだ! 僕だ! ……分かるかい? 意識が戻ったのか?」
哲人は、子供のように泣きじゃくりながら、初喜の手を握りしめた。 その手は温かい。 SAGA SAGAで触れた遼司の手とは違う、生身の人間の体温。
「……ええ。分かりますよ」
初喜は、酸素マスク越しに微笑んだ。 身体は鉛のように重く、指一本動かすのもやっとだ。 だが、心は羽が生えたように軽かった。
(帰ってきたのね。……この、愛おしい現実に)
病室のドアが開き、慌ただしい足音が響いた。 医師や看護師、そして家族たちが駆けつけてくる。
「ひいおばあちゃん!」
3人は初喜にとって、ひ孫になる。 孫である哲人と、その妻である憂の子ども達…。みんな、泣いていた。 植物状態だった彼女が目覚めたことは、現代医学の奇跡だった。
「……みんな。心配かけて、ごめんなさいね」
初喜は、一人一人の顔を見て頷いた。 そして、人垣の後ろで静かに微笑んでいる女性――憂(Yu)を見つけた。
「……憂さん」
「はい、お祖母様」
憂が歩み寄り、ベッドサイドに膝をついた。 彼女だけは、泣いていなかった。 すべてを知っているかのような、慈愛に満ちた瞳で初喜を見つめている。
「……いい旅でしたか?」
憂の問いかけに、初喜は深く頷いた。
「ええ。……とっても、素敵な旅でした」
初喜は、哲人の方を向いた。
「ねえ、哲人君。……私、不思議な夢を見ていたの」
「夢?」
「ええ。……貴方が作った、あの世界(SAGA SAGA)の中でね。……懐かしい人に会ったのよ」
初喜の瞳が、少女のように輝く。
「……お祖父ちゃんに、会ってきたわ」
「じいちゃん……?」
哲人は、きょとんとした顔をした。 祖父・哲信は、30年前に亡くなっている。会えるはずがない。 夢、あるいは幻覚だと思ったのだろう。
だが、初喜は続けた。
「遼司さんって名前でね……探偵をしてたの。黒いスーツが似合ってて、相変わらず不器用で、コーヒーにはうるさくて……」
初喜が語る「夢」の内容は、あまりに鮮明だった。 事務所の匂い。星という名の相棒。ケン太という弟子。 そして、何度も危機を救ってくれた、夫である哲信の強くて温かい手の感触。
「……あの日、貴方が泣いていた時も、お祖父ちゃんが隣にいてくれたのよ。『泣くな』って」
哲人の目から、涙が溢れ出した。 それは単なる夢物語ではない。 彼がSAGA SAGAに込めた「願い」が、奇跡を起こしたのだと、理屈を超えて理解できたからだ。
「……そうか。哲信祖父ちゃん、あっちで元気にしてたか」
「ええ。とっても。……『待ってる』って、言ってくれたわ」
初喜は、自分の胸に手を当てた。 そこにはもう、SAGA SAGAで遼司からもらった「魂の欠片」はない。 だが、その熱だけは、確かに残っている。
「だから私……もう少しだけ、ここでお話したら、行かなくちゃいけないの」
初喜の言葉に、病室が静まり返った。 それは、死の宣告ではない。 「次」へ向かうための、前向きな宣言だった。
「……そうか。哲信祖父ちゃんを、待たせちゃ悪いな」
哲人は、初喜の手を両手で包み込んだ。
「ありがとう、初喜祖母ちゃん。……僕の祖母でいてくれて。僕の人生を、照らしてくれて」
「こちらこそ。……貴方は、最高の孫でしたよ」
二人は見つめ合い、微笑んだ。 そこには、死への恐怖も、別れの悲しみもなかった。 あるのは、長い人生を共に歩んだ者同士の、深い感謝と信頼だけ。
「……憂さん」
初喜は、憂に手を伸ばした。
「はい」
「お土産話、たくさんあるの。……向こうでの冒険の話、聞いてくれるかしら?」
「ええ、もちろん。……ゆっくり、聞かせてくださいな」
憂は初喜の手を握り、優しく撫でた。 その手から、温かな光が流れ込んでくるのを感じた。 それは、痛みを取り除き、魂を安らかに導く「導きの光」。
白い病室に、穏やかな時間が流れる。 窓の外では、夕焼けが空を染めていた。 SAGA SAGAで見た夕焼けと同じ、美しい茜色。
(……待っていてね、哲信さん。今、お土産を持って帰りますから)
初喜は目を閉じ、愛する人たちの声に包まれながら、最後の休息へと就いた。 それは、永遠の旅立ちへの、短い休憩時間だった。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




