バグ化
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
私は、古びた格闘技道場の看板が掲げられた扉を開け、夕焼け町の中上滝と呼ばれる裏路地へと踏み出した。
昼下がりの路地は、高層ビルの谷間にあり、奇妙な静寂に包まれていた。足元のコンクリートには、乾燥したゴミや、誰かが放置したままの古新聞が散乱している。
(まさか、この姿で……)
鏡で確認した自分の姿を思い出す。黒い細身のスーツはそのままに、頭には中折れ帽、首元には鮮やかな赤いスカーフと緑の宝飾のブローチ。郵便局の制服を身に纏い、ひたすら地味に生きてきた私の生前の姿とは、あまりにもかけ離れた、華美で目立つ格好だった。
腰に下げられた霊子銃の重みが、この非現実的な状況が現実であることを教えてくれる。
【警報。対象感知。距離:50メートル。】
突如、腰のディテクターから、小さな機械音声が響いた。左側の路地奥から、コンクリートを叩きつけるような激しい衝撃音が断続的に聞こえてくる。
(あれか……)
私は帽子のつばに軽く指をかけ、音のする方向へと、躊躇なく歩を進めた。
路地の角を曲がった瞬間、視界の全てを占めたのは、異形の姿に変じた男だった。
元は警備員の制服を着ていたのだろう。だが、その制服は所々が破れ、全身の皮膚には不規則な、青白いひび割れが走っている。口元からは粘度の高い黒い霧が漏れ出ており、その男は手に持った警棒で、路地の壁を狂ったように、何度も何度も叩きつけていた。その音は、まるで古い時計の針が異常な速さで時を刻むような、不快なリズムを奏でていた。
「おい、何をやってる。」
私自身の声だった。低く、感情を含まない、冷徹な響き。それが「阿武隈 遼司」というホムンクルスに与えられた設定なのだろう。
私の声に、男の動作がピタリと止まる。ゆっくりと、私の方へと振り返ったその顔は、瞳孔が開き切ったまま、焦点が定まっていなかった。
「ア……アブ……」
男の口から漏れた黒い霧が、微かに「アブ」という音を形作る。それは、まさか**「阿武隈」**と、私を呼ぼうとしているのか。
「お前は、元NPCか。」
【対象データ:NPC(識別コード#749)。警備員・南崎。バグ浸食率:75%。旧支配者への信仰心による『魂の濁り』を確認。速やかな鎮圧を推奨。】
ディテクターの音声が、私の耳だけに冷静に情報を伝えてくる。バグ化したNPC、南崎。彼は、私と同じく、このSAGASAGAの世界の土台を支えるために作られた存在だったはずだ。それが、プレイヤーの悪意によって、今、破壊されるべき対象となった。
「ウウウアアアアア!」
南崎は、狂ったような叫びを上げると、警棒を振りかぶり、獣のような速さで私めがけて突進してきた。
(動け、身体。戦闘データを実行しろ。)
私の中に感情はなかったが、生前、長年にわたり郵便局の窓口で、迅速かつ正確に処理を行ってきた「習慣」が、この新しい肉体を動かした。
南崎が振り下ろした警棒が、私の頭上を掠める。ホムンクルスの身体は、その速度と軌道を完全に予測し、最小限の動きでそれを回避した。
「遅い。」
私は腰の霊子銃に手を伸ばした。弾倉には、ショロトルが言っていた「魂のエネルギー」が充填されているのだろう。
銃を抜き、南崎の動きを封じるために、その肩めがけて発砲する。
パン!
銃声と共に、青白い光が弾丸となって南崎の左肩を貫いた。通常の弾丸ではない。南崎の皮膚が青白いひび割れから崩壊し、内部の構造物が剥き出しになる。しかし、彼は倒れない。それどころか、その動きはさらに狂暴になった。
「あああああ!アブ……マ……!」
南崎は警棒を捨て、両手を鉤爪のようにして私に組みかかろうとしてくる。
私は、彼の動きを見極めた。この霊子銃は、肉体を破壊するだけでは意味がない。
(核を破壊する。魂の濁りの中心点……)
彼の魂のエネルギーの「濁り」を、ディテクターの情報を頼りに、冷静に解析する。バグは、彼の胸部、ちょうど心臓の位置にある。
南崎の腕を払い除け、反動を利用して後方へ一歩跳躍する。その動きは、数十年の病床生活を送った老人のものではなく、クロヒョウのような優雅で、それでいて強力なものだった。
その一瞬の隙を突いて、私は躊躇なく銃口を南崎の胸部、青白いひび割れが最も集中している場所へと向けた。
「これで終わりだ。」
パン!
二発目の銃弾。青白い光が、今度は南崎の胸を貫いた。
南崎の身体は、まるで砂で作られた城のように、音もなく崩れ始めた。皮膚、筋肉、そして制服。全てが細かい黒い粒子となって、風に舞い上がり、跡形もなく消滅していく。
そこには何も残らなかった。ただ、静かな裏路地に、黒い粒子が微かに漂っているだけ。
「処理完了。」
ディテクターの音声が静かに告げた。私は霊子銃を回転させ、冷たい銃身に息を吹きかける。
(これが……正義の味方……)
罪悪感はなかった。ただ、一人のNPCを、自分の手で『消去』したという事実だけが残った。
その時、耳元の通信機が小さく鳴った。八千代さんの声だ。
「遼司さん、流石です。所要時間、わずか45秒。戦闘データと身体の同期は完璧です。さあ、次は本拠地へ戻ってください。次の任務が、あなたを待っていますよ。」
私は銃をホルスターに戻し、路地を見渡した。消えた南崎の痕跡はなく、ただの静かな路地がそこにあるだけだ。
「……了解した。」
私は静かに答えると、踵を返し、来た道を戻り始めた。あの古い映画館のような建物こそが、私の新たな人生の拠点、『SGMA』の本拠地なのだ。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。




