病室の窓と、最後のワガママ
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
その日の八千代は、朝からベッドから起き上がれなかった。
「……おはよう、八千代」
遼司が枕元に座り、お粥を乗せた盆を置く。 八千代は薄く目を開け、弱々しく微笑んだ。
「おはようございます、局長。……ごめんなさい、朝食も作れずに」
「気にするな。……ケン太が作ったお粥だ。あいつ、料理の腕を上げてるぞ」
「ふふっ。……それは、楽しみです」
八千代はスプーンを持とうとしたが、手から滑り落ちた。 指の欠損は、薬指にまで進行していた。 もはや、物を握ることすら難しい。
「……俺がやる」
遼司はスプーンを拾い、お粥をすくって八千代の口に運んだ。 八千代は恥ずかしそうに、けれど素直に口を開けた。
「……美味しい」
「そうか。……あいつも喜ぶ」
食事を終え、薬(魂の安定剤)を飲ませると、八千代は少しだけ顔色が良くなった。 だが、その瞳には、何かを言いたげな光が宿っていた。
「……局長。お願いがあります」
「なんだ? 何でも言え」
「私……外の空気を吸いたいです」
八千代は、窓の外を見つめた。
「この部屋の窓からじゃなくて……。もっと高い場所から、この街を見下ろしたいんです」
それは、彼女の「最後のワガママ」のように聞こえた。 安静にしていなければならない身体だ。 だが、遼司は迷わなかった。
「……分かった。行こう」
***
遼司は、八千代をおんぶして事務所を出た。 星とケン太が心配そうに見送る。
「局長、お気をつけて!」 「お姉さん、いってらっしゃい!」
「ああ。……留守を頼むぞ」
遼司は、アトランティア市で一番高い場所――「正義とロマンの塔」へと向かった。 かつてバステト神の試練を受け、哲人の手紙を受け取った場所だ。
エレベーターを使わず、非常階段をゆっくりと登る。 八千代の身体は、羽毛のように軽い。 データの欠損が進み、質量さえも失いつつあるのだ。
「……重くないですか? あなた」
「軽いよ。……昔、お前をおんぶして病院に行った時より、ずっとな」
遼司は、人間だった時の過去の記憶を噛み締めていた。 戦後まもなく、2人が若き日だった頃。 だが今もこうして一緒に景色を見ることができる。
塔の最上階。展望デッキ。 そこからは、SAGA SAGAの全景が見渡せた。 青い海、広がる街並み、遠くに見える世界樹。 哲人が作り、遼司たちが守ってきた世界。
「……綺麗ですね」
八千代は、遼司の背中から降りて、手すりに寄りかかった。 風が、彼女の髪を揺らす。
「私、この景色が大好きです。……哲人君が、私たちのために作ってくれた、優しい世界」
「ああ。……いい世界だ」
遼司は八千代の隣に立った。 八千代は、欠けた手で、空に手を伸ばした。
「ねえ、あなた。……私がいなくなっても、この世界は続きますよね?」
「……当たり前だ」
遼司は声を詰まらせた。
「俺たちが守ったんだ。……簡単には終わらせねえ」
「良かった。……それなら、安心です」
八千代は、満足そうに目を細めた。 そして、遼司の方を向き、真剣な顔をした。
「約束してください。……私が消えても、貴方は泣かないで」
「……無理な相談だな」
「泣かないで。……笑っていてください。貴方の笑顔が、私の一番の薬ですから」
八千代は、残った指で遼司の頬に触れた。 その指先が、光の粒子となって崩れ始める。
「……ッ!」
遼司は、その手を自分の手で包み込んだ。 崩れゆく砂を、必死で繋ぎ止めるように。
「分かった。……約束する」
遼司は、涙をこらえてニカっと笑った。 不器用で、ひきつった笑顔だったかもしれない。 それでも、八千代にとっては最高の笑顔だった。
「ふふっ。……変な顔」
八千代は笑い、そして遼司の胸に倒れ込んだ。
「……少し、眠くなりました」
「ああ。……寝ていいぞ」
「……おやすみなさい、あなた」
「おやすみ、八千代」
八千代の寝息が、静かに響く。 遼司は彼女を抱きかかえ、夕焼けに染まる街を見下ろした。
(……哲人。見てるか)
遼司は心の中で、孫に語りかけた。
(ばあちゃんは、今、幸せそうだぞ。……お前が作ったこの世界で、俺の腕の中で眠ってる)
現実世界の病院で、心電図の音がどうなっているか、遼司には分からない。 だが、ここにある「安らぎ」だけは、紛れもない真実だ。
風が止んだ。 静寂の中で、二人の時間だけが、ゆっくりと流れていた。 終わりの時まで、あと僅か。 それでも、この温もりは永遠だと、遼司は信じたかった。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




