背比べの柱傷と、消えゆく小指
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
「師匠! 見てください!」
阿武隈探偵事務所の柱の前で、ケン太が声を張り上げた。 彼は、柱に刻まれた古い傷跡と、自分の頭の高さを比べている。
「ほら! 先月より、5ミリも背が伸びてます!」
「……たかだか5ミリで騒ぐな」
遼司は書類から顔を上げずに言ったが、その口元は僅かに緩んでいた。 柱には、ケン太が事務所に来てから刻み始めた、成長記録の傷が増えている。 それは、この世界(SAGA SAGA)がまだ「未来へ進んでいる」ことの証だ。
「すごいですね、ケン太君。……すぐに局長を追い越しちゃうかも」
八千代が、お盆を持って微笑む。 彼女は、ケン太の成長を誰よりも喜んでいた。 まるで、自分の孫を見るような目で。
「へへっ! 僕、もっと大きくなって、お姉さんを守れるくらい強くなりますから!」
ケン太が力こぶを作るポーズをとると、八千代は嬉しそうに目を細めた。
「……はい。期待していますよ」
八千代がお盆をテーブルに置こうとした、その時。
カチャン。
お盆が傾き、コーヒーカップが一つ、床に落ちた。 割れはしなかったが、中のコーヒーが床に広がる。
「あ……」
八千代が、自分の右手を見つめて固まった。 小指がない。 ノイズのように点滅して消えているわけではない。 完全に、データとして**「欠損」**していた。
「……八千代!」
遼司が飛び起き、八千代の手を掴んだ。 触れられない。 小指があったはずの場所は、空虚な空間になっていた。
「……申し訳ありません。……うっかり、落としてしまって」
八千代は、震える声で謝った。 自分の指がないことよりも、カップを落としたことを謝る。 それが、彼女なりの「強がり」だと、遼司には痛いほど分かった。
「……ケン太。雑巾持ってきてくれ」
遼司は静かに言った。
「え? あ、はい!」
ケン太は異変に気づきながらも、慌てて台所へ走った。 遼司は、八千代の手を自分の両手で包み込んだ。
「……痛くねえか?」
「……はい。痛みはありません。ただ……感覚が、ないだけで」
八千代は、気丈に微笑もうとしたが、その瞳には恐怖が滲んでいた。 指先の一時的な消失とは違う。 これは、修復不可能な「喪失」だ。 終わりの時が、確実に近づいている。
『警告。対象データの欠損率、2.5%に上昇。……魂魄データの維持限界まで、推定残り180日』
右腕のカインが、無慈悲なカウントダウンを告げる。 あと半年。 それが、彼女に残された時間。
「……局長。私、まだ働けますか?」
八千代が、すがるような目で遼司を見た。
「指が一本なくても……コーヒーは淹れられます。電話も取れます。……だから」
「当たり前だ」
遼司は、八千代の手を強く握った。
「指が全部なくなったって、お前は俺の秘書だ。……俺が、お前の手になる」
遼司は、八千代の手を自分の頬に当てた。 冷たい。けれど、愛おしい。
「……はい。ありがとうございます」
八千代の目から、一筋の涙がこぼれた。
***
その日の夕方。 ケン太が帰った後、遼司は一人で柱の傷を眺めていた。 一番下の傷は、ケン太が初めて来た時のもの。 一番上の傷は、今日の分。
成長する命と、消えゆく命。 その残酷な対比が、この事務所には同居している。
「……皮肉なもんだな」
遼司は呟いた。 哲人が作ったこの世界は、本来なら「永遠」を約束された場所だったはずだ。 だが、そこにあるのは、現実世界よりも鮮烈な「生と死」だった。
「局長」
背後から、星が声をかけてきた。 彼女の手には、包帯が握られている。
「八千代殿の手、手当てしてきました。……物理的な傷ではありませんが、彼女の『心』を守るために」
「……そうか。すまねえな」
星は、遼司の隣に並んだ。
「……神である私には、理解できないことがあります。なぜ、人間は『終わり』を知りながら、それでも笑うことができるのですか?」
星は、今日の八千代の姿を思い出していた。 指を失った直後でも、彼女はケン太に笑顔を向けていた。
「……終わりがあるからだよ」
遼司は、柱の傷を指でなぞった。
「いつか終わるって分かってるから、今この瞬間が惜しくなる。……笑えるうちに笑っておこうって、必死になるんだ」
それは、30年前に病床で学んだ、遼司自身の哲学でもあった。
「……なるほど。それが『人間』の強さですか」
星は、深く頷いた。
「私も、学びたいと思います。……その強さを」
星は、自分の日本刀を見つめた。 ただ悪を斬るだけの剣ではなく、限りある命を慈しむための剣に。
「頼むぜ、相棒。……これからは、忙しくなるぞ」
遼司は、星の肩を叩いた。 残り半年。 八千代が最後まで笑顔でいられるように、俺たちは何でもする。 どんな理不尽とも戦う。
窓の外では、一番星が輝き始めていた。 それは、夜の闇に抗うように、強く、儚く瞬いていた。
「……帰るか。晩飯の時間だ」
「はい! 今日のメニューは、八千代殿のリクエストで『天ぷら』です!」
「……指、大丈夫か?」
「私が揚げます! 局長は食べる係です!」
「へっ。……胃薬用意しとくか」
二人の会話が、少しだけ湿っぽさを吹き飛ばした。 阿武隈探偵事務所の夜は、今日も静かに更けていく。 失われていくものを、愛おしみながら。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




