旅支度は、少し早めに
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
「……よし。これで修復完了だ」
阿武隈探偵事務所のキッチン。 遼司は、額の汗を拭いながら、修理した食器棚を満足げに叩いた。 先日、予言者の攻撃で消失しかけた棚だが、今は新品同様に磨き上げられ、八千代のお気に入りのティーセットが整然と並んでいる。
「ありがとうございます、局長。……なんだか、前より使いやすくなったみたい」
八千代が、淹れたてのコーヒーを持ってくる。 その手つきは慎重だ。 もう二度と、カップを割らないように。
「……八千代。話がある」
遼司はコーヒーを受け取り、真剣な顔をした。
「予言者のアジト――図書館の地下『禁書庫』へのルートが特定できた。……今夜、カチコミをかける」
「今夜、ですか」
八千代は、少しも驚かなかった。 まるで、その時が来るのを待っていたかのように。
「ああ。奴を放置しておけば、またこの事務所が消されちまう。……それに、お前の身体も」
遼司は言葉を濁したが、八千代は静かに微笑んだ。
「分かっています。……私の『期限』を、少しでも延ばすためですね」
八千代は、自分の胸に手を当てた。 魂の欠片のおかげで、今は安定している。 だが、その輝きは以前よりも強くなっている。 それは、蝋燭が燃え尽きる直前の、最後の瞬きのように。
「……私も、行きます」
「ダメだ」
遼司は即答した。
「今回は危険すぎる。相手は、この世界のシステムそのものだ。……お前を連れて行くわけにはいかねえ」
「いいえ。行きます」
八千代は、珍しく強い口調で言った。
「これは、私の問題です。……私がこの世界にいることで、世界が悲鳴を上げているなら、私が直接『ごめんなさい』を言いに行きます」
「……謝りに行くんじゃねえ。文句を言いに行くんだよ」
遼司はため息をついた。 この頑固さは、誰に似たのか。 ……いや、昔からこうだった。 一度言い出したら聞かない、芯の強い女性だった。
「……分かった。だが、絶対に俺の後ろにいろ。カインの防壁から一歩でも出たら、即座に強制送還するからな」
「はい。……約束します」
***
出撃の準備が始まった。 早乙女星は、日本刀の手入れに余念がない。 佐伯は、地下でハッキングツールの最終調整を行っている。
そんな中、八千代は自室で、何かを書いていた。
「……何してるんだ?」
遼司が覗き込むと、八千代は慌てて手元のノートを隠した。
「い、いいえ。なんでもありません」
「……遺書か?」
遼司の問いに、八千代は小さく首を振った。
「遺書ではありません。……『引き継ぎ書』です」
八千代は、ノートを遼司に見せた。 そこには、びっしりと細かい文字で、探偵事務所の運営マニュアルが書かれていた。
『コーヒー豆の購入先リスト』 『星さんの好みのスイーツ店一覧』 『佐伯君への夜食の差し入れメニュー』 『局長の薬の飲み方と、風邪を引いた時の対処法』
「……なんだよ、これ」
「もしもの時のためです。……私が少し長いお休みを頂くことになっても、皆さんが困らないように」
八千代は、寂しげに笑った。
「私がいなくても、この事務所は回ります。……でも、少しだけ不便になるかもしれませんから」
遼司は、ノートを取り上げ、放り投げた。
「……いらねえよ、こんなもん」
「局長……」
「お前がいなきゃ、コーヒーの味も分からねえ。星の機嫌も直せねえ。俺の風邪も治らねえんだよ!」
遼司は、八千代の肩を掴んだ。
「引き継ぎなんてさせるか。……お前は、ずっと俺の秘書だ。死んでも辞めさせねえぞ」
「……はい。……はい……!」
八千代は、遼司の胸に飛び込んで泣いた。 本当は、怖かったのだ。 自分が消えた後、遼司がどうなってしまうのか。 また一人で、孤独に耐える日々に戻ってしまうのではないか。
「大丈夫だ。……俺が必ず、お前を連れて帰る」
遼司は八千代を抱きしめ、その温もりを心に刻んだ。 この温もりだけは、絶対に忘れない。 データが消えようと、世界が終わろうと。
***
夜。 アトランティア市は、不気味な静寂に包まれていた。 SAGA中央図書館の前に、遼司たちが立つ。
「……準備はいいか」
「いつでもどうぞ、局長」 星が刀を構える。
「システムハッキング、完了。セキュリティゲート、開きます」 佐伯の声がインカムから響く。
『……推奨アクション。正面突破。敵の演算能力を上回る「非論理的」な暴力で、道を切り開きます』 右腕のカインが、戦闘モードに入る。
「よし。……行くぞ!」
遼司たちは、図書館の重厚な扉を蹴破った。 目指すは地下深く。 世界の真実と、八千代の運命が待つ「禁書庫」へ。
これは、最後の戦いではないかもしれない。 だが、絶対に負けられない戦いだ。
遼司のポケットには、八千代が書いた「引き継ぎ書」が入っていた。 捨てたふりをして、こっそり拾っておいたのだ。 もしもの時、これがあれば、彼女の想いだけは守れる気がして。
(……使う日は来させねえ。だが、お守り代わりに持っておくよ)
遼司は胸ポケットを叩き、暗闇へと踏み出した。 その背中を、八千代がしっかりと見つめ、追いかける。
二人の足音が、静寂な図書館に響き渡った。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




