虫食いの世界と、忘れられない味
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
アトランティア市は、継ぎ接ぎだらけの悪夢と化していた。
遼司が強制停止させたことで、大規模な削除は止まった。 だが、一度「空白」になってしまった場所は戻らない。 街のあちこちに、底なしの白い穴が口を開けている。
「……ひどい有様ですね」
早乙女星が、空白の縁に立って呟いた。 そこにはかつて、老舗の和菓子屋があったはずだ。 だが今は、匂いも、音も、店の主人の笑顔も、すべてが「無」に帰している。
「NPCたちは、この穴を認識すらしていません。……彼らの記憶からは、最初から『和菓子屋』なんて存在しなかったことになっている」
星の声が震える。 物理的な破壊よりも恐ろしい、存在の抹消。
「……帰るぞ。長居は無用だ」
遼司は、焦げ付いた右腕を庇いながら背を向けた。 カインは沈黙したままだ。先日の過負荷で、システムが休眠状態に入っている。 今の遼司は、ただの満身創痍の中年探偵に過ぎない。
***
事務所に戻ると、八千代がキッチンに立っていた。
「おかえりなさい、局長。星さん。……お腹、空いたでしょう?」
彼女は努めて明るく振る舞っていた。 だが、その顔色は蝋人形のように白い。
「ああ。……腹ペコだ」
遼司は無理に笑って、いつもの席に座った。 八千代が、鍋をお玉でかき混ぜる。 今日はカレーのようだ。スパイシーな香りが、沈んだ空気を少しだけ和らげる。
「すぐによそいますね。……あれ?」
八千代の手が止まった。
「……どうした?」
「いえ……。お玉が、見当たらなくて。さっきまで持っていたはずなのに」
八千代が足元を探す。 だが、お玉は落ちていない。
「おかしいわね。……それに、お皿も」
食器棚を開けた八千代が、息を呑んだ。 棚の中が、空っぽだった。 皿も、コップも、茶碗も。 すべてが消えていた。
「……な、なんで……?」
八千代が後退ると、今度は彼女が触れていた食器棚が、音もなく「白く」なった。 そして、消えた。
「キャアアアアッ!?」
「八千代!!」
遼司が飛び出し、八千代を抱き寄せてキッチンから引き剥がす。 直後、キッチンの壁と冷蔵庫が、空間ごとごっそりと「消失」した。 そこには、ただ真っ白な「空白」だけが残された。
『……言ったでしょう。終わりの鐘は鳴り止まない、と』
空白の中から、予言者の声が響いた。
「てめえ……! ここは俺たちの家だぞ!」
遼司が叫ぶが、侵食は止まらない。 白い空白が、床を、天井を、ジワジワと食い荒らしていく。 まるで、白いカビが増殖するように。
「いけません! このままでは事務所ごと消されます!」 星が日本刀を構えるが、斬るべき敵がいない。 「無」は斬れない。
「……私のせいです」
八千代が、遼司の腕の中で泣き崩れた。
「私がここにいるから……世界が、私の居場所を消そうとしているんです……! 私さえ消えれば……!」
「馬鹿野郎! 諦めんじゃねえ!」
遼司は八千代を強く抱きしめたまま、迫りくる空白を睨みつけた。 カインは動かない。霊子銃も効かない。 どうする。どうすれば、この「消失」を止められる。
(……思い出せ!クリーナーを止めた時を。…… ……思い出せ!写楽に色を取り戻させた時を)
システムは、データを消す。 だが、人の心は――。
「……八千代。今日のカレー、隠し味は何だ?」
遼司は唐突に尋ねた。
「え……?」
「答えろ! 何を入れた!」
「……チョコレートと、インスタントコーヒーです。……貴方が、コクのあるカレーが好きだから」
「そうだ。……昨日の晩飯は、肉じゃがだったな。少し煮崩れてたけど、味が染みてて美味かった」
遼司は、目を閉じて叫んだ。 目の前に迫る「空白」に向かって、自分の記憶を叩きつけるように。
「ここには! 食器棚があった! 右の扉の蝶番が少し緩んでて、開けるたびにギイって音がした!」
「冷蔵庫には! 星のプリンと、俺のビールと、八千代が漬けたピクルスが入ってた!」
「壁には! 哲人が小さい頃に描いた落書きが、うっすら残ってたんだよォォォッ!!」
遼司の叫びは、単なる情報の羅列ではない。 そこにあった生活の匂い、手触り、感情。 それら全てを込めた、魂の「復元」だった。
ドクン。
遼司の右腕が、カインの意思とは無関係に、金色の光を放った。 「情動エネルギー」が、物理的なデータとして具現化する。
「思い出せ、世界! ……ここには、俺たちの『生きた証』があったんだ!!」
遼司が、輝く右拳を空白に叩き込んだ。
バァァァァァン!!
光が炸裂し、白い闇を塗り潰していく。 空白だった場所に、線が走り、色が付き、形が戻る。
壁が。冷蔵庫が。食器棚が。 そして、湯気を立てるカレーの鍋が。
「……戻った」
星が呆然と呟く。 失われたはずのキッチンが、元通りに再生していた。 いや、以前よりも鮮明に、色濃く存在しているように見える。
『……馬鹿な。削除された領域を、個人の「記憶」だけで再構築したというのか……?』
予言者の驚愕の声が、ノイズと共に消えていく。 侵食が止まった。
「……はぁ、はぁ……」
遼司はその場にへたり込んだ。 右腕の光が消え、再び沈黙する。
「局長……」
八千代が、震える手で鍋の蓋を開けた。 湯気と共に、スパイシーな香りが広がる。 それは、データ上の香りではない。 確かにそこにある、生活の匂いだった。
「……食うぞ」
遼司は立ち上がり、テーブルについた。
「世界が俺たちを消そうとするなら、俺たちは何度だって書き直してやる。……しつこく、泥臭くな」
「……はい。はい!」
八千代は涙を拭い、皿(戻ってきた皿だ!)にカレーをよそった。
三人で囲む食卓。 カレーの味は、いつもより少ししょっぱかった。 それは八千代の涙の味か、それとも「生きている」という味か。
だが、これで解決したわけではない。 遼司はカレーを飲み込みながら、腹を決めた。
「予言者。……てめえの『断捨離』には付き合いきれねえ」
守るだけじゃジリ貧だ。 次は、こっちから「本丸」へ乗り込む。 世界の設計図が眠る場所――SAGA中央図書館の「禁書庫」へ。
(待ってろよ。……俺たちの未来が書かれたページ、勝手に書き換えさせてもらうぜ)
遼司の瞳に、反撃の炎が宿っていた。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




