遼司の覚醒
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
「あははははは…。成程…。生まれ変わったと、ぬか喜びしてましたが、それは大ごとな役目を背負わされてしまったんですね…。それはそれは大変だ…」
全身から力が抜けるような感覚は、久方ぶりに得た肉体を持ったからこそ感じられる、生々しい疲労だった。私は、先程まで眠っていた半透明の棺が消えたことに気づきもせず、ただ呆然と正面を見つめていた。
「遼司さん?」
八千代さんは、妙に落ち着いた表情で、カウンター席のような場所から立ち上がった。その一昔前の事務服姿からは想像もつかないほど、彼女の纏う空気は洗練されていた。
「先程は取り乱してしまい、すいません。でも、まさか自分が世界の平和を担う『セキュリティソフト』になるなどと、誰が想像できましょうか。私はただの、一介の郵便局員だったんですよ。」
「だからこそ、遼司さんでなければならなかったのですよ。」八千代さんはそう言って、優しく微笑む。
「創造神ショロトル様は、あなたの『泥臭い情念』、そして『家族のためだけに働いた人生の記憶』こそが、この世界をバグから守るための、最も純粋な『鍵』だと仰せです。」
「鍵……。」
私は立ち上がり、壁にかけられた鏡へと歩み寄る。鏡に映るは、黒い細身のスーツに身を包んだ、精悍な顔つきの男。三十年前、肺結核で亡くなった兄たちの影に隠れていた、弱々しい自分ではない。
(これが、ホムンクルス……。)
驚くほどに軽快な動き。病に蝕まれる前の自分よりも遥かに強靭で、身体の内側から溢れるような、若々しく淀みのないエネルギーを感じる。そして、この身体には一切の感情が湧いてこない。それは、死後の魂の状態と同じで、冷静に、ただタスクを処理するためだけに存在する、高性能な機械のような感覚だった。
「どうですか、新しいお身体は?」
「完璧過ぎて、気持ち悪いほどです。まるで、自分の肉体ではないようだ。」
「それはその通りですよ。これはあなたの魂の器であり、あなたの記憶と経験を基に、このSGMAのために設計された『超高性能多機能型生体ユニット』です。遼司さん、あなたは今、この世界で最強の存在です。」
八千代さんは、私が鏡の前にいる間に、部屋の片隅に置かれていた黒いトランクをカウンターの上に運んでいた。
「では、局長としての最初の説明に戻りましょう。あなたの役割は『旧支配者を信仰するプレイヤーを排除し、バグ化したNPCを鎮圧すること』。そして、そのために必要なのが、このSGMAの技術の粋を集めた**『魂魄解析機』と『霊子銃』**です。」
八千代さんがトランクを開くと、中には黒い革製のベルトと、古びた拳銃が収まっていた。
「『霊子銃』?」
それは、私の生きていた時代に警察官が携帯していたような、旧式の回転式拳銃に見えた。しかし、その銃身は通常の金属ではなく、見る角度によって淡く青白い光を帯びていた。
「その霊子銃は、あなたの魂からエネルギーを供給することで、旧支配者の眷属の『核』を直接破壊する力を持っています。そして、腰に巻くディテクターは、周りの人間の『魂の濁り』、つまり旧支配者との接触度合いを可視化します。」
八千代さんは拳銃を取り上げ、慣れた手つきで私に渡した。ひんやりとした金属の感触。それは、私が生前、書類をめくること以外に使ったことのない、全く新しい道具だった。
「使い方は簡単です。あなたの脳内の記憶を基に、このホムンクルスが自動的に『最適な戦闘行動』を選択し、あなたの身体を動かします。あなたは、過去の『郵便局員』の記憶を持つ、『ハードボイルドな探偵』を演じるだけで良い。感情は不要です。」
郵便局員。長年、黙々と世間との橋渡し役を担ってきた、私の人生の全て。それが、この異世界での最強の武器になるというのか。
「しかし、拳銃なんて使ったこともありません。」
「訓練は不要です。あなたの魂が身体と融合した瞬間、全ての戦闘データはインプットされています。さあ、装着してください、遼司さん。」
八千代さんは、私の新しい肉体を褒めるかのように、満足そうに頷いた。私は言われるがままに、重い拳銃とディテクターを腰に装備した。黒いスーツに、黒いベルト、青く光る拳銃。確かに『ハードボイルドな探偵』という設定に妙に合致していた。
その時だった。
部屋の壁に設置された、巨大なタッチパネル式のスクリーンが、突然、激しい警告音と共に赤く点滅を始めた。
【警報:バグ検知。アトランティス大陸・33区 夕焼町・中上滝 外縁部】
【対象:一般NPC(識別コード#749)、『魂の濁り』急激な増大を確認。緊急鎮圧を要請。】
八千代さんの表情が、初めてわずかに引き締まった。
「遼司さん、これが最初のお仕事です。今、外縁部にバグ化しかけたNPCが現れました。恐らく、プレイヤーによる旧支配者信仰の実験に利用されたのでしょう。」
「バグ化……。」
「放っておくと、そのNPCは周囲のプレイヤーや他のNPCを無差別に襲い始めます。局長、あなたは『阿武隈探偵事務所』の表口から出て、現場に向かってください。この建物は、あなたのいる場所から約300メートル先に位置しています。」
「待ってください!私はまだこの身体にも、この状況にも慣れていない!」
「大丈夫。あなたは最強です。そして……」八千代さんは私の目をまっすぐに見つめ、強く言い切った。
「あなたの初任務の相手は、元NPC、つまり『部下』です。優しく、しかし確実に、排除してください。」
そう告げると、八千代さんは私を背にして、再びコンピューターが並ぶ部屋の奥へと歩き出した。
私は、与えられた情報と、腰の冷たい感触を胸に、意を決して、古ぼけた映画館のような扉へと向かった。ドアノブに手をかけると、微かな電気的な振動を感じた。
(郵便局員だった私が、今から、バグを抱えた『部下』を撃つというのか……)
私の中に感情はなかった。だが、生前、責任感だけで働いてきた人生の『記憶』が、私を突き動かした。やらねばならぬ。それが私の新しい役割だ。
静かに扉を開けると、そこは一昔前の格闘技道場の看板が掲げられた、昼下がりの裏路地だった。路地には人影がなく、奇妙な静けさだけが支配していた。
私は、阿武隈遼司として、第一歩を踏み出した。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。




