散らない桜と、止まった時計
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
「局長。……ご存じですか? 第8区画の公園にある『散らない桜』の噂」
阿武隈探偵事務所の昼下がり。
八千代が、少し調子の良さそうな顔色で紅茶を淹れながら言った。
「散らない桜?」
「ええ。何でも、その桜の下に行くと、一番幸せだった瞬間のまま『時間が止まる』そうです。……永遠に、その幸せの中にいられるとか」
八千代の言葉に、遼司の手がピクリと止まった。
永遠。時間が止まる。
それは今の遼司にとって、喉から手が出るほど欲しい言葉であり、同時に最も忌むべき言葉でもあった。
「……くだらねえ。どうせまた、旧き教団の残党が仕掛けたバグだろ」
遼司は、わざと素っ気なく答えた。
だが、その右腕は、即座に反応を示していた。
『警告。当該エリアにて、局所的な「時間凍結」現象を確認。規模は半径50メートル。……危険度は「中」ですが、放置すれば周囲のデータ更新を阻害し、エリア全体が壊死します』
「壊死、か。……やっぱり、ロクなもんじゃねえな」
遼司は立ち上がった。
「行ってくる。……八千代、お前は留守番だ」
「はい。……お気をつけて」
八千代は素直に頷いた。
彼女も分かっているのだ。今の自分の身体では、足手まといになるだけでなく、その「永遠」という甘い毒に、誰よりも惹かれてしまうかもしれないことを。
***
第8区画、メモリアル公園。
その一角だけ、季節外れの桜が満開に咲き誇っていた。
ピンク色の花弁が舞い散るが、地面に落ちることはない。空中でふわりと浮き続け、無限のループを描いている。
「綺麗ですね……。でも、気持ち悪いです」
同行した星が、日本刀の柄に手をかけて眉をひそめる。
桜の下には、数人のNPCが立ち尽くしていた。
恋人同士、親子、老夫婦。
彼らは皆、幸せそうな笑顔を浮かべたまま、ピクリとも動かない。
瞬きすらしていない。
『解析。対象者たちの脳波は、幸福な記憶のループ再生によりロックされています。外部刺激への反応なし。……実質的な「植物状態」です』
カインの冷徹な分析が、遼司の胸を抉る。
植物状態。
それは、現実世界の八千代(初喜)と同じ状態だ。
「……ようこそ、迷える子羊たち」
桜の木の陰から、一人の男が現れた。
燕尾服を着て、片眼鏡をかけた紳士風の男。手には大きな懐中時計を持っている。
「私は『刻屋』。……どうです? この素晴らしい景色は。ここでは誰も老いず、誰も失わず、愛だけが永遠に続くのです」
男は、陶酔したように両手を広げた。
「貴方も望んでいるのでしょう? ……大切な人が、壊れていくのを見るのは辛いでしょう?」
男の視線が、遼司を見透かすように射抜く。
この男、知っている。
遼司が抱える「恐怖」を。八千代の「期限」を。
「……ああ、辛いな。身が引き裂かれる思いだ」
遼司は否定しなかった。
その正直な言葉に、男は満足げに微笑み、懐中時計を差し出した。
「なら、契約しましょう。貴方の奥様を、この園にお招きください。私が、彼女の時間を『一番美しい状態』で止めて差し上げます。……痛みも、消失も、もう二度と訪れませんよ?」
甘美な誘惑。
八千代を連れてくれば、彼女はもう苦しまない。
焦げた卵焼きに泣くことも、指先が消える恐怖に震えることもない。
永遠に、あの穏やかな笑顔のままでいられる。
星が、息を呑んで遼司を見る。
「局長……?」
遼司は、懐中時計を受け取ろうと手を伸ばし――。
ガシッ!!
その手で、男の腕を力任せに掴み上げた。
「……断る」
「なッ……!? なぜですか! 彼女を愛しているのでしょう!?」
「愛してるからこそだ!」
遼司の右腕が唸りを上げ、男の腕を締め上げる。
「時間が止まった笑顔なんて、ただの『画像データ』だ! 俺が見たいのはな……今日笑って、明日泣いて、明後日また怒る……そういう『生きた八千代』なんだよ!」
遼司は、八千代が焦がした卵焼きの味を思い出した。
あの苦味。あの失敗。
それこそが、彼女が生きている証だった。
「それに、永遠なんて言葉を安売りするな! ……終わりがあるから、俺たちは必死に今日を生きるんだ!」
遼司は左手で霊子銃を抜き、男が持つ懐中時計――この空間の制御デバイス――を撃ち抜いた。
「時を動かせ! 臆病者が!」
パァァァァン!!
懐中時計が粉砕されると同時に、桜のループが解けた。
空中に浮いていた花弁が、一斉に地面へと降り注ぐ。
止まっていた人々が、「はっ」と息を吹き返し、自分が何をしていたのかと見回し始めた。
「……馬鹿な。永遠を拒絶するなんて……人間は、そこまで愚かか……」
男は腕を抑えて後退った。
その姿が、ノイズ混じりの霧となって消えていく。
「愚かで結構。……俺たちは、泥臭く時間を進むだけだ」
遼司は、散りゆく桜を見上げた。
地面に落ちた花弁は、すぐに色褪せ、消えていく。
その儚さこそが、美しいのだと、今は胸を張って言える。
***
事務所に戻ると、八千代が出迎えてくれた。
「おかえりなさい。……どうでしたか? 散らない桜は」
「ああ。……綺麗だったが、すぐ散っちまったよ」
遼司は帽子を掛け、ソファに座った。
「やっぱり、桜は散るからいいんだな」
「ふふっ。そうですね」
八千代は、遼司の前にコーヒーを置いた。
その手には、また新しい絆創膏が増えている。
時間は残酷に進んでいる。
だが、その進む時間の中で、彼女は今日も遼司のためにコーヒーを淹れてくれた。
「……美味い」
「よかったです」
遼司は、カップの温もりを手のひらで感じながら、心に誓った。
永遠なんていらない。
ただ、この温かいコーヒーが冷めるまでの時間を、大切に味わい尽くそうと。
窓の外では、日が沈み、夜が来る。
止まらない時間が、二人を優しく包み込んでいた。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




