焦げた卵焼きと、錆びない右腕
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
朝の阿武隈探偵事務所に、焦げ臭い匂いが漂っていた。
「……あ」
台所に立っていた八千代が、小さく声を上げた。
フライパンの上で、卵焼きが真っ黒になっている。
「八千代?」
遼司が新聞から顔を上げると、八千代は慌ててフライパンを隠そうとした。
「す、すみません。……火加減を、間違えてしまって」
彼女の笑顔は引きつっていた。
料理上手な彼女が、卵焼きを焦がすなんてあり得ない。
だが、遼司の右腕は、残酷な事実を告げた。
『解析。対象:南山八千代。調理中、約3秒間の「意識消失」を確認。その間、彼女の身体機能は完全に停止していました』
(……意識が飛んだのか)
遼司は胸が締め付けられる思いだった。
指先の消失だけではない。
彼女の「時間」そのものが、少しずつ削り取られている。
「……いいさ。焦げた卵焼きも、香ばしくて美味いぞ」
遼司は立ち上がり、八千代の手からフライパンを優しく取り上げた。
「俺が食う。……お前は座ってろ」
「でも……」
「いいから。たまには俺の手料理も食わせてやる」
遼司は、黒く焦げた卵焼きを皿に移し、新しい卵を割り入れた。
不格好だが、心を込めて焼く。
食卓には、焦げた卵焼きと、遼司が焼いた不揃いな卵焼きが並んだ。
「いただきます」
遼司は、迷わず焦げた方を口に入れた。
苦い。
だが、その苦味こそが、彼女が必死に「日常」を守ろうとした証だ。
「……うん。悪くない」
八千代は、遼司が焼いた卵焼きを一口食べて、涙ぐんだ。
「……美味しいです。少し、しょっぱいですけど」
「へっ。隠し味だ」
二人が食事をしていると、星が出勤してきた。
「おはようございます! ……おや、今日は局長が朝食当番ですか?」
「まあな。八千代には、少し休んでもらってる」
星は、八千代の顔色が優れないことに気づき、何も言わずに自分の席についた。
彼女もまた、この事務所に漂う「終わりの予感」を感じ取っているのだ。
***
その日の午後。
遼司は一人で、第2層へのゲートがある地下室にいた。
「カイン。……シミュレーションを開始しろ」
『了解。仮想敵:第1部クラスの神話生物。戦闘モード起動』
遼司は、誰もいない空間に向かって、右腕を突き出した。
カインのデータが展開し、ホログラムの敵が出現する。
「うおおおおッ!」
遼司は霊子銃を撃ちながら、右腕で敵を殴りつけた。
圧倒的な破壊力。
カインの遺産は、遼司の戦闘力を飛躍的に向上させていた。
だが、遼司の目的は「強くなること」ではなかった。
「もっとだ! もっと負荷をかけろ!」
『警告。これ以上の出力上昇は、貴方の魂魄データに深刻なダメージを与えます』
「構わん! 八千代の……あいつの負担を、少しでも俺が肩代わりする方法を探せ!」
遼司は叫んだ。
八千代の「存在維持」に必要なエネルギー。
それを、自分の魂を削ってでも分け与える方法があるはずだ。
この世界は、孫(哲人)が作った「愛の箱庭」なのだから。
『……理論上は可能です。貴方の魂魄エネルギーを「純粋な生命力」に変換し、譲渡する術式。……しかし、成功確率は低く、貴方が消滅するリスクがあります』
「上等だ。……俺はもう一度死んでる身だ。惜しくねえ」
遼司は、汗だくになりながら拳を握りしめた。
その時、背後から声がした。
「……ダメですよ、局長」
振り返ると、階段の上に星が立っていた。
彼女は、悲しげな目で遼司を見ていた。
「星……」
「貴方が消滅したら、八千代殿が悲しみます。……それは、彼女が一番望まないことです」
星は階段を降りてきた。
「私も、神として……アストレアとして、何かできないか考えました。でも、寿命という『理』は、神でも覆せません」
星は遼司の右腕に触れた。
「カイン殿も、同じ意見のはずです」
『肯定。兄さんの提案は、非効率かつ感情的です。……ですが、その「足掻き」こそが、貴方たちらしいとも思います』
カインの声に、少しだけ皮肉ではない温かさが混じっていた。
遼司は、床に座り込んだ。
「……分かってるよ。無理だってことは」
遼司は天井を見上げた。
「ただ……悔しいんだ。何もしてやれない自分が」
星は、遼司の隣に座った。
「何もしていないわけではありません。……貴方は、毎日彼女のコーヒーを飲み、彼女と笑い合っている。それが、今の彼女にとって最大の『特効薬』です」
星の言葉が、遼司の胸に染み渡る。
「……そうだな。湿っぽい顔してちゃ、八千代に笑われるな」
遼司は立ち上がり、埃を払った。
「戻るぞ、星。……八千代が、昼飯の支度をしてる頃だ」
「はい。……あ、今日の昼食は、私が作りましょうか? 卵焼きのリベンジを」
「お前のは『黒焦げ』じゃなくて『消し炭』になるから止めろ」
二人は軽口を叩きながら、階段を上がった。
事務所に戻ると、八千代が元気そうに電話応対をしていた。
「はい、阿武隈探偵事務所です。……ええ、迷子のインコですね。承りました」
その姿は、いつもの完璧な秘書だった。
だが、受話器を持つ手には、今朝の火傷の痕に絆創膏が貼られている。
遼司は、その絆創膏を見て、心の中で誓った。
焦げた卵焼きも、火傷の痕も、全部俺が受け止める。
残された364日。
一日たりとも、無駄にはしないと。
「八千代。インコ探しなら、俺が行く」
「あら、局長。張り切ってますね」
「ああ。……今日は、いい天気だからな」
遼司は帽子を被り、外へ出た。
空は青く、風は心地よい。
ありふれた日常が、今は何よりも愛おしかった。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




