期限付きのデートコース
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
「……カイン。確率を教えろ」
早朝の阿武隈探偵事務所。
まだ誰も出勤していない静寂の中で、遼司は自分の右腕に問いかけた。
『質問の意図を特定してください』
「とぼけるな。八千代のことだ。……あいつの接続が維持できる期間だ」
一瞬の沈黙。
カインの思考演算が、冷徹な事実を弾き出す。
『……現時点での減少レートから予測すると、安定接続が可能な期間は、最大で残り「365日」。ただし、突発的なエラーや精神的負荷によっては、さらに短縮される可能性があります』
「あと、一年か……」
遼司は、吸ってもいないタバコの煙を吐き出すような仕草をした。
30年前、病室で妻を残して逝った自分。
今度は、妻を見送る側になるのか。
『推奨アクション。対象:南山八千代の活動を制限し、セーフティ・エリア(保存領域)での冬眠モードへ移行すること。これにより、活動限界を数年単位で延長可能です』
「……却下だ」
遼司は即答した。
「八千代は、植物みたいにただ生きることを望んじゃいない。……あいつは、俺の秘書で、俺の妻だ。最後まで『人間』として生きたいはずだ」
カランコロン。
ドアベルが鳴り、八千代が出勤してきた。
「おはようございます、局長。今日は早いですね」
いつもの笑顔。いつもの挨拶。
だが、遼司の強化された視覚には、彼女の輪郭がごく僅かに揺らいでいるのが見えていた。
「……八千代。今日は店を閉めるぞ」
「え? 何か緊急の任務ですか?」
「いや。……たまには、サボりたくなってな」
遼司は立ち上がり、ハンガーから自分のジャケットと、八千代のカーディガンを取った。
「デートだ。……付き合えよ」
***
アトランティア市、第5区画「水上庭園エリア」。
ヴェネツィアを模した美しい運河の街を、二人はゴンドラに揺られて進んでいた。
「ふふっ。局長からデートに誘われるなんて、何十年ぶりかしら」
八千代は、水面に映るデジタルの青空を眺めて微笑んだ。
その横顔は、約70年前の若き日と変わらず美しい。
「……昔、新婚旅行で行ったな。熱海の温泉」
「ええ。貴方、旅館の浴衣のサイズが合わなくて、ずっと不機嫌でしたね」
「うるせえ。……あの頃は、金もなくて、ろくな所に連れて行ってやれなかった」
遼司は、水面を見つめた。
郵便局員としての薄給。病気による早期退職。
妻には苦労ばかりかけた。
「だから、この世界(SAGA SAGA)でくらいは、いい思いをさせてやりてえんだよ」
八千代は、遼司の手をそっと握った。
その手は冷たかったが、遼司は強く握り返した。
俺の体温で、温められる限り温めてやりたい。
『警告。情動数値の上昇を検知。……非効率ですが、悪くない出力です』
カインが、空気を読んで茶化すようなコメントを脳内に送ってくる。
ゴンドラを降りた二人は、ウィンドーショッピングを楽しんだ。
といっても、買うのは形だけのデータだ。
それでも、八千代は新しいスカーフを選び、遼司は似合わないサングラスを試着して笑い合った。
「あ、見てください局長。クレープ屋さんですよ」
「また甘いものか? 昼飯前だぞ」
「いいじゃないですか。……私、食べてみたかったんです。原宿のクレープ」
八千代が少女のようにはしゃぐ。
遼司は苦笑いしながら、財布(電子マネー)を取り出した。
その時。
「……ッ!」
八千代の足が、もつれた。
石畳の地面に倒れ込みそうになる。
「八千代!」
遼司は電光石火の速さで彼女を抱き留めた。
カインの反射神経が、最悪の事態を防ぐ。
「……す、すみません。また、躓いてしまって」
八千代は気丈に笑おうとした。
だが、遼司には見えていた。
彼女の足首から先が、一瞬だけ**「消失」**していたことを。
周囲のNPCたちが、心配そうに集まってくる。
「大丈夫ですか?」「救急車を呼びましょうか?」
「……触るな!」
遼司は、獣のような声で周囲を威嚇した。
NPCたちが怯えて後退る。
「局長……。皆さん、親切で……」
「見るな。……誰も、八千代を見るな」
遼司は八千代を抱きかかえ、自分のジャケットで彼女の足を隠した。
彼女が「壊れかけている」ことを、誰にも知られたくなかった。
何より、八千代自身に、その無残な姿を見せたくなかった。
遼司は八千代を抱えたまま、路地裏のベンチへと逃げ込んだ。
「……ごめんなさい、あなた。……せっかくのデートなのに」
八千代の目から、涙がこぼれる。
彼女も気づいているのだ。自分の身体が、限界を迎えていることを。
「謝るな。……謝るのは俺の方だ」
遼司は、震える八千代の肩を抱いた。
「俺は……無力だ。世界を救ったとか、神様を倒したとか言っても……一番大切な女一人、治してやれねえ」
カインの力も、霊子銃も、ここでは役に立たない。
これは敵の攻撃ではない。
「寿命」という、命あるもの全ての逃れられない運命だからだ。
「いいえ。……十分ですよ」
八千代は、遼司の胸に顔を埋めた。
「私は、幸せです。……こうしてまた、貴方の隣で、風を感じて、クレープの匂いを嗅いで……。これ以上の奇跡なんて、ありません」
八千代の手が、遼司の頬に触れる。
その指先は、今は実体を持っていた。
「だから……暗い顔をしないでください。私の大好きな、ハードボイルドな探偵さん」
遼司は、奥歯を噛み締めた。
泣くな。ここで泣いたら、彼女の覚悟を汚すことになる。
「……ああ。分かってる」
遼司は八千代を背負い上げた。
その身体は、以前よりもずっと軽く感じられた。
「帰ろう、八千代。……星が、腹を空かせて待ってる」
「はい。……おんぶなんて、恥ずかしいですけど」
「いいんだよ。俺の背中は、お前専用だ」
夕暮れのアトランティア市。
長い影を落としながら、遼司は歩いた。
その一歩一歩が、残り少ない「砂時計の砂」を踏みしめるように。
事務所に戻ると、星が心配そうに出迎えた。
「おかえりなさい! ……あの、お楽しみでしたか?」
「ああ。最高だったよ」
遼司はニカっと笑ってみせた。
その笑顔が、少しだけ無理をしていることに、星は気づいただろうか。
デスクの上には、八千代が買ってきたクレープが置かれている。
溶けかけたアイスクリーム。
それは、甘くて、少しだけ切ない味がした。
残り365日。
遼司は心に誓った。
このカウントダウンがゼロになるその瞬間まで、絶対に湿っぽい顔は見せないと。
それが、夫としてできる、最後の「意地」だった。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




