欠けたカップと、滲むインク
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
カシャーン。
硬質な音が、穏やかな午後のカフェに響き渡った。
「あ……」
八千代が、呆然と足元を見つめている。
彼女の足元には、砕け散ったティーカップと、こぼれた紅茶の染みが広がっていた。
「やだ、八千代さん! 大丈夫ですか!?」
店員の祈里が慌てて駆け寄ってくる。
「す、すみません。……手が、滑ってしまって」
八千代は青ざめた顔でしゃがみ込み、破片を拾おうとした。
その指先が、微かに震えている。
阿武隈遼司は、新聞を読む手を止め、その光景を凝視していた。
八千代が、あんな初歩的なミスをするなんてあり得ない。彼女はいつだって完璧で、所作の一つ一つが洗練されている。
それに――。
『警告。対象:南山八千代。右手指先に、0.05秒間の「テクスチャ消失」を検知』
遼司の右腕が、脳内で冷徹な事実を告げた。
(……見間違いじゃ、なかったか)
遼司は席を立ち、八千代の手を掴んだ。
「触るな、八千代。怪我をする」
「局長……。申し訳ありません。私としたことが」
「いいんだ。……少し、休んでいろ」
遼司は祈里に目配せして片付けを任せると、八千代を椅子に座らせた。
彼女の手は、いつもより少しだけ冷たい気がした。
「……疲れてるんじゃないか? 最近、依頼続きだったしな」
「いえ、そんなことは。……ただ、一瞬だけ、指先の感覚がなくなったような気がして」
八千代は自分の手を見つめ、不安げに眉を寄せた。
その仕草に、遼司の胸がざわつく。
かつて現実世界で、病に倒れる直前に見せた、ふとした「違和感」に似ていたからだ。
その時、事務所の通信機が鳴った。
地下の佐伯からだ。
『局長、緊急の相談があります。第7区画の商店街で、奇妙な現象が起きています』
「奇妙な現象?」
『はい。住人(NPC)たちの「記憶」が、部分的に欠落しているようです。まるで、インクが滲んで読めなくなった手紙のように』
遼司は八千代を一瞥した。
彼女の指先の消失と、住人の記憶欠落。
無関係とは思えなかった。
「……分かった。すぐに行く」
遼司はジャケットを羽織った。
八千代が立ち上がろうとする。
「私も行きます」
「いや、お前は休んでろ。星、行くぞ」
「は、はい! ……八千代殿、お大事になさってください」
星もまた、八千代の異変に気づいているのか、心配そうな視線を残して遼司に続いた。
***
第7区画の商店街は、奇妙な静けさに包まれていた。
人々は普通に歩いている。店も開いている。
だが、会話がどこか噛み合っていない。
「いらっしゃい! 今日のおすすめは……あれ? なんだっけ?」
八百屋の店主が、大根を握りしめたまま首を傾げている。
「おじさん、これいくら?」
「えーと……。いつもいくらで売ってたかなあ」
彼らの表情に、焦りはない。
ただ、ポッカリと穴が空いたように、日常のデータが抜け落ちている。
『解析。周辺NPCのメモリ領域に、原因不明の「バッドセクタ(不良区画)」が増殖しています。外部からの攻撃痕跡なし。……自然劣化の可能性が高い』
カインの分析に、遼司は舌打ちした。
「自然劣化だと? 哲人が作ったこの世界が、たかだか数十年でガタが来るわけねえだろ」
遼司は、ベンチに座り込んで空を見上げている老婆に声をかけた。
「婆さん。今日はいい天気だな」
「ああ、そうだねえ。……ところで、あんた誰だい?」
「阿武隈探偵事務所だ。……婆さん、自分の名前、言えるか?」
老婆は笑った。
「やだねえ、ボケちゃいないよ。あたしは……あたしは……」
老婆の笑顔が凍りつく。
口が動くが、声が出ない。
名前が出てこないのではない。
「名前という概念」が、彼女の中から消えているのだ。
「……っ!」
老婆の身体が、一瞬だけノイズのようにブレた。
カフェで見た、八千代の指先と同じ現象。
「星! 神気で補強しろ! こいつの存在が薄まってる!」
「は、はい! 天秤の加護よ、形を留めよ!」
星が背中に手を当て、神気を流し込むと、老婆のノイズは収まった。
だが、それは一時的な処置に過ぎない。
「……ありがとう、探偵さん。なんか、急に怖くなっちまって」
老婆は震えていた。
遼司は老婆の手を握りしめた。
その手は、八千代と同じように冷たかった。
(これは……病気だ。この世界そのものが、どこか患ってやがる)
ナイ達の侵略で受けたダメージの後遺症か。
それとも、あの「予言者」が言っていた「内側からの崩壊」なのか。
事務所への帰り道。
夕焼けに染まる街を見ながら、遼司は右腕に問いかけた。
「おい、カイン。……八千代の数値、正直に教えろ」
『……回答。南山八千代の存在維持係数は、現在「安定域」の下限ギリギリを推移しています。原因は不明ですが、彼女の魂魄データと、現実世界の肉体とのリンク(接続)に、微細なラグが発生しています』
「ラグ……?」
『はい。例えるなら、遠く離れた場所から送られてくる信号が、途切れ始めている状態です』
遼司は足を止めた。
現実世界の、八千代(初喜)。
植物状態で眠り続ける彼女の命の灯火が、揺らぎ始めているということか。
「……そうか。時間がないのか」
遼司は拳を握りしめた。
この世界を守る戦いは終わったと思っていた。
だが、本当の敵は「時間」という、どうしようもない運命なのかもしれない。
事務所のドアを開けると、八千代が笑顔で迎えてくれた。
その指先には、絆創膏が貼られている。
「おかえりなさい、局長。……ご心配おかけしました」
「ああ。……ただいま」
遼司は、何も言わずに八千代を抱きしめた。
その温もりを、確かめるように。
壊れかけたティーカップを、そっと包み込むように。
「……八千代。今日のコーヒー、少し濃い目で頼む」
「はい。喜んで」
八千代は、いつものように微笑んだ。
だが、遼司には見えていた。
彼女の笑顔の端に、隠しきれない「覚悟」のような色が滲んでいるのを。
SAGA SAGAの空に、一番星が光る。
それは、終わりの始まりを告げる、小さな灯りのようだった。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




