神様と、珈琲と、また明日
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
目を開けると、そこは戦場ではなかった。
鏡面世界でも、泥だらけの第2層でもない。
温かな日差しが差し込む、見慣れたカフェの店内。
「前線cafe SAGA SAGA店」。
「気がついた?」
カウンターの中で、エプロン姿の憂が微笑んでいた。
彼女の手には、湯気を立てるサイフォンが握られている。
「……オーナー?」
遼司は身体を起こした。
傷一つない。あれだけの激戦を繰り広げたはずのホムンクルスの身体は、新品同様に修復されていた。
隣の席では、八千代と星も目を覚まし、自分の無事を確認して驚いている。
「ここは……第3層の特別室ですか?」
八千代が尋ねると、憂は首を振った。
「ううん。ここは第1層。いつものカフェよ」
憂は、三つのコーヒーカップをカウンターに並べた。
芳醇な香りが店内に広がる。
「お疲れ様。世界を救ってくれて、ありがとう」
その言葉は、あまりにあっけなかった。
神話的恐怖を退け、世界の崩壊を食い止めた英雄たちに対する労いにしては、あまりに日常的すぎる。
だが、遼司にはそれが心地よかった。
「……礼には及びませんよ。俺たちは、ただの郵便局員ですから」
遼司はカップを手に取り、一口飲んだ。
苦味と酸味のバランスが絶妙な、極上のブレンド。
「それにしても……オーナー。あんた、一体何者なんだ?」
遼司は、核心を突いた。
「ただのカフェのオーナーが、あんな奇跡(回復)を起こせるわけがない。それに、あのナイという神が、あんたに恐れをなしていた」
憂は、小首をかしげて悪戯っぽく笑った。
「何者に見える?」
「……ただの、優しい奥さんに見えますよ」
「ふふっ。なら、それが正解」
憂はカウンターから出てきて、遼司の隣に座った。
そして、小さな声で囁いた。
「私はね、この世界(SAGA SAGA)が好きなの。夫が……哲人が、一生懸命考えて、私のために作ってくれたこの世界が」
彼女の瞳には、宇宙の星々が宿っているようだった。
だが、その光は冷たくない。どこまでも温かく、そして切ない。
「だから、守りたかった。神様の力じゃなくて、人間の力で。……貴方たちのような、不器用で、泥臭くて、愛おしい人間たちの手で」
憂の手が、そっと遼司の手に重ねられた。
その温もりは、懐かしい記憶を呼び覚ます。
遠い昔、幼い哲人の手を引いて歩いた時の、あの小さな手の温もり。
(……そうか。この人は)
遼司は、言葉を飲み込んだ。
聞いてはいけない気がした。
彼女が誰なのか。哲人とどういう関係なのか。
それを知ってしまえば、この心地よい「日常」が終わってしまう気がしたからだ。
「……分かった。詮索はしないでおきます」
遼司はカップを置いた。
「その代わり、一つだけ約束してください」
「なあに?」
「これからも、美味いコーヒーを飲ませてください。……俺たちが、仕事(配達)を終えて帰ってきた時には」
憂は、満面の笑みで頷いた。
「ええ、約束するわ。……おかえりなさい、お爺様」
その呼び名に、遼司は苦笑いした。
「……やめろよ。俺はまだ、現役の『ハードボイルドな探偵』だぞ」
店内に、柔らかな笑い声が響く。
八千代も、星も、つられて笑った。
カランコロン。
ドアベルが鳴り、元気な声が飛び込んできた。
「オーナー! 遅れましたー!」
「もう、祈里ったら! また寝坊したの!?」
巫女装束の店員たち――祈里、神那、沙希、そして美琴が出勤してきた。
彼女たちは、昨夜の世界の危機など知る由もない。
いつものようにドジを踏み、いつものように笑い合っている。
「あら、いらっしゃい! 阿武隈さんたち、早いですね!」
美琴が笑顔で声をかけてくる。
「ああ。……ちょっと、朝の散歩にな」
遼司は立ち上がり、帽子を被った。
窓の外には、昨日の黒い雨が嘘のような、突き抜けるような青空が広がっている。
SAGA SAGAの空は、今日も美しかった。
「行くぞ、八千代、星。……店を開けなきゃならん」
「はい、局長」
「御意」
三人はカフェを出て、光溢れるアトランティアの街へと歩き出した。
その背中は、以前よりもずっと軽やかだった。
彼らは知っている。
この平和な日常が、どれほどの奇跡の上に成り立っているかを。
そして、それを守るために、自分たちがここにいる意味を。
「……さて。今日の依頼は何かな」
遼司は、空を見上げて呟いた。
混沌は退いたが、消滅したわけではない。
またいつか、悪戯なゲームを仕掛けてくるだろう。
だが、恐れることはない。
ここには、最強の郵便局員と、最高の家族がいるのだから。
「どんと来い。……宛先不明の荷物は、全部俺が引き受けてやる」
阿武隈探偵事務所の看板が、朝日に輝いていた。
今日もまた、新しい一日が始まる。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




