雨傘のいらない土砂降り
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
空が泣いているのではない。空が腐っているのだ。
アトランティア市の上空を走る巨大な亀裂から、黒い粘液が滝のように降り注いでいた。
それは物理的な雨ではない。第2層(神界)に封印されていたはずの「旧支配者の怨念」が、デジタルデータに変換され、物質化して降り注ぐ「呪詛の豪雨」だった。
「キャアアアア!」
「な、なんだこれ!? 身体が……透ける!?」
街の至る所で悲鳴が上がる。
黒い雨に打たれたNPCたちは、その皮膚がノイズのように点滅し、存在を維持できずに崩れ落ちていく。建物もまた、溶解するように黒い泥へと変わり果てていた。
「総員、退避誘導を急げ! 第33区画のシェルターを開放しろ!」
阿武隈探偵事務所の前で、遼司は声を枯らして叫んでいた。
彼は愛用の帽子を脱ぎ捨て、ずぶ濡れになりがら、逃げ惑う市民を誘導している。黒いスーツは泥とノイズで汚れ、かつてのダンディな探偵の面影はない。だが、その背中は今までで一番大きく見えた。
「局長! 敵影多数! 第2層からの『不法投棄』が止まりません!」
早乙女星が、ビルの屋上から通信を入れる。
彼女は今、単身で空中の敵を迎撃していた。亀裂から次々と湧き出てくるのは、翼を持つ異形「飛行するポリプ」の大群だ。
「くっ……! 断罪!」
星の日本刀が閃くたびに、異形たちは両断され、汚い花火のように爆散する。
だが、数が多すぎる。斬っても斬っても、亀裂の向こうから新たな影が湧いてくる。
「星! 無茶をするな! お前の神気だって無限じゃないぞ!」
遼司が通信機に怒鳴る。
『無茶ではありません! これが私の……アストレアの使命です!』
星の声には、悲壮な決意が滲んでいた。
『あの大神様(憂)が創り、哲人様が夢見たこの世界を……こんな汚物で埋め尽くさせるわけにはいきません!』
「馬鹿野郎! 誰が死んでいいと言った!」
遼司は歯噛みした。
これが「本番」か。ナイの野郎、チュートリアルで俺たちの戦力を測った上で、確実に押し潰せる物量を用意してきやがった。
「局長……」
事務所の軒下で、八千代が青ざめた顔でモニターを見つめていた。
彼女の手元にある端末には、アトランティア市全域の損害状況が表示されている。赤い警告灯が、画面を埋め尽くしていた。
「市内全域の情動データが……急激に『恐怖』に染まっています。このままでは、市民の恐怖心が、逆に敵のエネルギー源になってしまいます……!」
「分かってる。だが、どうすればいい……!」
遼司は、降り注ぐ黒い雨を見上げた。
この雨は、人々の心を折るために降っている。希望を溶かし、絶望を植え付けるための雨だ。
その時だった。
避難誘導をしていた遼司の足元で、一人の少女が転んだ。
先ほどまで、母親とはぐれて泣いていた子供だ。
「ううっ……怖いよぉ……お母さぁん……」
少女の足に、黒い泥が絡みつく。泥は少女の恐怖を吸って肥大化し、彼女を飲み込もうとしていた。
「離れろ!」
遼司はとっさに霊子銃を抜き、泥を撃ち抜いた。
泥は弾け飛んだが、少女は恐怖で立ち上がれない。
「お嬢ちゃん、立てるか?」
遼司が手を差し出すと、少女は震える声で言った。
「おじちゃん……世界、終わっちゃうの……?」
その純粋な問いかけに、遼司は言葉を詰まらせた。
嘘をついて「大丈夫だ」と言うのは簡単だ。だが、この状況で安易な慰めは、何の救いにもならない。
遼司は、泥だらけの膝をつき、少女と目線を合わせた。
そして、ニカっと笑ってみせた。
「終わらせるかよ。……俺はな、まだ届けなきゃなんない『手紙』が山ほどあるんだ」
「手紙……?」
「ああ。未来の孫への手紙、妻への感謝の手紙、それから……お前さんが大きくなってから書くはずのラブレターとかな」
遼司は、少女の頭をポンと撫でた。
その手は泥だらけで、温かかった。
「郵便局員ってのはな、雨が降ろうが槍が降ろうが、荷物を届けるまでは絶対に仕事を辞めないんだよ。だから安心しろ。この世界は、まだ『配達中』だ」
少女の瞳に、わずかな光が戻った。
「……うん。おじちゃん、頑張って」
「おうよ。任せとけ」
遼司は立ち上がった。
その背中には、もう迷いはなかった。
「八千代! 星! 聞こえるか!」
遼司は通信機に向かって叫んだ。
「作戦変更だ! 防衛戦じゃない! 俺たちは今から『配達』に行く!」
『配達……ですか?』
八千代が戸惑う。
「ああ。この黒い雨雲の向こう側……亀裂の中心に、敵の司令塔がいるはずだ。そこに特大の『苦情』を叩き込んでやる!」
それは無謀な特攻だ。
だが、このままジリ貧で全滅するよりは、一縷の望みに賭ける価値がある。
『……ふふっ。了解しました、局長』
八千代の声が、少しだけ弾んだ。
『貴方がそう言うなら、私もお供します。苦情の宛名は「ナイ様」でよろしいですね?』
『私も同意します!』
上空の星からも応答がある。
『邪悪なるクレーマーとして、神の鉄槌を下してやりましょう!』
「よし! 総員、雨具はいらん! 泥臭く行くぞ!」
阿武隈探偵事務所のメンバーは、絶望の雨の中へ飛び出した。
彼らは知らない。その無謀な突撃が、SAGA SAGAの運命を左右する「奇跡」への第一歩になることを。
そして、その様子を、遥か上空から冷ややかな目で見下ろす影があった。
「へえ。まだ折れないんだ」
亀裂の縁に座り、足をぶらつかせている少年——ナイ。
彼は、眼下で繰り広げられる必死の抵抗を、退屈そうに眺めていた。
「でも、残念。今回のゲームに、逆転のシナリオ(隠しルート)は用意してないんだよねぇ」
ナイが指を鳴らすと、亀裂の奥から、更に巨大な影が這い出そうとしていた。
それは、絶望の具現化。
アトランティア市を飲み込むほどの、超巨大な「神話生物」の姿だった。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。




