ゲームオーバー、あるいは「混沌」のチュートリアル
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
阿武隈探偵事務所のドアベルが、カランコロンと気怠げに鳴った。
「……戻ったぞ」
遼司は、重たい足取りで事務所に入ると、そのまま愛用の革張りソファに深々と沈み込んだ。
ホムンクルスの肉体は疲労を感じないはずだが、魂魄に刻まれた消耗は、鉛のように重くのしかかっていた。
「お疲れ様でした、局長」
八千代が、手慣れた動作でコーヒーメーカーのスイッチを入れる。コポコポという抽出音が、戦場の轟音で満たされていた耳に優しく響く。
「今回の任務は、精神的に堪えましたね。他人の家庭の事情に、土足で踏み込むような真似ばかりでしたから」
「全くだ。……だが、空っぽのまま終わるよりはマシだろ」
遼司は帽子を目深に被り直し、天井を見上げた。
サザンクロス団地の天王寺家。あの後、彼らは不格好に泣きながら、それでも「家族」として再出発するための会話を始めていた。泥臭くて、喧嘩腰で、しかし体温のある会話を。
早乙女星が、窓際のブラインドを指で押し下げ、外の様子を窺う。
アトランティア市の夜景は、いつものように煌びやかで、平和そのものに見える。
「……静かすぎます」
星が呟いた。
「ナイという旧支配者のリーダー。あれだけの規模で『情動』を操作し、街全体を混沌に陥れようとした。それなのに、ゲームが終わった途端、波が引くように気配が消えました」
「負けを認めて、尻尾を巻いて逃げた……ってわけじゃなさそうだな」
遼司もまた、奇妙な違和感を覚えていた。
ナイの態度は、最初から最後まで「遊び」だった。必死さがなかった。
その時、地下中枢にいる佐伯から通信が入った。
『局長、全エリアの情動データ解析が完了しました。……嫌な予感が的中しましたよ』
佐伯の声は、いつになく硬かった。
「どういうことだ、佐伯」
『ナイが仕掛けた「家族ゲーム」。我々はそれを解決し、歪んだ情動をデバッグしました。しかし、ナイの真の目的は、歪ませることそのものではなく……「我々がどうやってそれを修正するか」を観測することだったようです』
事務所のメインモニターに、複雑なグラフが表示された。
それは、遼司が放った「愛の情念」が、どのようにして楔を中和したかを示すログだった。
『見てください。ナイは、局長が放った「愛」の波形を、全て詳細にサンプリングしています。人間の「情動」が、このSAGA SAGAのシステムにどのような影響を与え、論理コード(ロジック)を書き換えるのか……その「特異点」のデータを収集していたのです』
遼司は息を呑んだ。
「つまり、俺たちは……敵に『攻略本』を渡してしまったようなものか?」
『……否定できません。彼らは「愛」を理解できない。だからこそ、愛が持つ「システムへの干渉力」を恐れ、同時に欲していた。今回のゲームは、いわば**「混沌のためのチュートリアル」**です』
***
同時刻。アトランティア市を見下ろす、建設中の高層ビルの屋上。
夜風に吹かれながら、少年——ナイは、手の中にある「黒いテディベア」を愛おしそうに撫でていた。
そのテディベアの瞳は、今は赤く明滅し、膨大なデータを吸い込んでいた。
「すごいなぁ、人間(NPC)って。論理的にはマイナスになるはずの『自己犠牲』や『非効率な感情』が、結果としてプラスの出力を生み出すなんて」
ナイは、空中にホログラムのキーボードを展開し、軽やかに指を走らせた。
そこには、遼司や八千代、星たちの戦闘データ、そして彼らが発した「情動の波長」が完全にコピーされていた。
「お爺ちゃん(遼司)の『責任感』。お婆ちゃん(八千代)の『献身』。星お姉さんの『正義』……。うんうん、どれも素晴らしいスパイスだね」
ナイは、テディベアを夜空に掲げた。
その先に見えるのは、SAGA SAGAの空に浮かぶ、デジタルの月。
「でもさ、もしこの『愛の情動』を、反転させて、**システムの中枢**に直接流し込んだら、どうなると思う?」
ナイの背後の空間が歪み、巨大な黒い影が這い出してきた。それは、かつて遼司たちが戦ったどの異形よりも巨大で、濃密な「神気」を帯びていた。
「ありがとう、お爺ちゃんたち。君たちのおかげで、**『第2層(神界)』の扉をこじ開ける鍵**が完成したよ」
ナイは邪悪に笑った。
その笑顔は、少年のような無邪気さと、神ごとき冷酷さが同居する、真の怪物のそれだった。
「さあ、チュートリアルは終わりだ。ここからは本番。……アザートース様の『概念』を、この世界のど真ん中に植え付けに行こうか」
ナイが指を鳴らすと、アトランティア市の夜空に、巨大な**「亀裂」**が走った。
それは、第1層(表層)と第2層(SGMAの領域)を隔てる境界線が、強制的に引き裂かれた音だった。
***
阿武隈探偵事務所。
警報音が鳴り響き、モニターが真っ赤に染まった。
『局長! 緊急事態です! アトランティア市上空に、第2層への巨大なゲートが出現! 規模は計測不能!』
佐伯の絶叫が響く。
「なっ……!?」
遼司たちが表に飛び出すと、夜空が割れていた。
ひび割れた空の向こうから、黒い粘液のような「泥」が、滝のように街へと降り注いでいる。
「あれは……楔の原液!? まさか、第2層そのものを、この街に落とす気か!」
星が刀を構え、戦慄する。
八千代が、震える手で遼司の袖を掴んだ。
「局長……。あれは、『ゲーム』ではありません。……『侵略』です」
遼司は、降り注ぐ黒い雨を見上げ、歯を食いしばった。
安息の時間など、最初からなかったのだ。
「……上等だ。チュートリアルで手の内を晒したなら、本番でその上を行くまでのこと!」
遼司は霊子銃を抜き、割れた空を睨みつけた。
「総員、第一種戦闘配置! 郵便局員の残業時間は、これからが本番だぞ!」
SAGA SAGAの世界を揺るがす、真の戦いが幕を開けようとしていた。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。




