消失の練習曲(エチュード)
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
郊外の古い洋館。そのリビングルームには、張り詰めたピアノの旋律だけが支配していた。
曲はショパンの『革命』。激しく、悲劇的な旋律だが、そこで奏でられている音には「情熱」という温度が一切なかった。まるで、楽譜データを寸分違わず再生する機械のような、冷徹で完璧な演奏。
「……遅れているわ、鈴」
ピアノの横に立つ母親が、メトロノームのように冷たく言い放った。手には指揮棒の代わりに、細い定規が握られている。
「第3小節のアルペジオ、0.02秒の遅延。私の求めている『完璧』には程遠い。やり直し」
「はい、お母様。申し訳ありません」
ピアノに向かう少女――鈴は、表情一つ変えずに答えた。
高校生くらいの年齢だろうか。しかし、その瞳には光がなく、何より異様だったのは、彼女の指先や髪の毛の先端が、時折ノイズのように揺らぎ、半透明に透けていることだった。
(これが……『破棄』か)
玄関ホールに踏み込んだ阿武隈遼司は、ディテクターが弾き出した異常数値に息を呑んだ。
少女の存在データ(HP)は、演奏を続けるたびに削り取られている。彼女は、母親の指摘を受け入れ、自分を否定するたびに、自らの存在をこの世界(SAGA SAGA)から「削除」しようとしているのだ。
「お邪魔するよ。阿武隈探偵事務所だ」
遼司が低い声を上げると、母親がゆっくりと振り返った。
上品なブラウスに身を包んだ美しい女性だが、その背後には、天井に届くほどの巨大な「黒い影」が揺らめいていた。ナイが仕掛けた楔が、彼女の「娘への過剰な期待」を依代に実体化している。
「探偵? 呼んでいないわ。今はレッスンの最中よ。……鈴、手を止めないで」
母親は遼司たちを一瞥もしない。彼女にとって、目の前の娘の演奏以外は、世界のノイズでしかないのだ。
「いいえ、荷物(手紙)が届いていますよ。お母さん」
遼司の隣で、南山八千代が一歩前に出た。その声は、いつもの秘書としての柔らかなものではなく、かつて教壇に立っていた頃の、凛とした教師の響きを帯びていた。
「貴女の娘さんは、もう限界です。見て分からないのですか? 彼女の指が、消えかけているのを」
「消える? あら、それは『浄化』よ」
母親はうっとりと娘を見つめた。
「不純物が消えて、純粋な『音楽』だけが残る。鈴には肉体なんて邪魔なだけ。私の理想とする旋律を奏でる、完全な存在になればいいの」
その言葉が引き金だった。
母親の背後の黒い影が膨張し、無数の指揮棒のような鋭い棘となって、遼司たちに襲いかかった。
「邪悪なる教育者め……!」
早乙女星が抜刀し、前に出る。
「断罪!」
星の日本刀が閃き、棘を切り落とす。しかし、切り落とされた影は即座に再生し、さらに数を増して襲いかかってくる。
「局長! この影、物理干渉が無効です! 母親の『信念』が強固すぎて、楔の核に刃が届かない!」
「信念だと? ……いや、違うな」
遼司は霊子銃を構えながら、ディテクターの数値を解析した。
「あれは信念じゃない。『恐怖』だ」
母親の情動データ。表向きは「娘への期待(+500)」だが、その裏側には真っ黒な「自身の失敗への恐怖(-1000)」が渦巻いている。
かつて自分がピアニストになれなかった絶望。それを娘に押し付け、娘が成功しなければ自分の人生が無意味になるという、身勝手な恐怖。
「鈴! 弾きなさい! 止めたら許さない!」
母親の叫びと共に、影の棘がピアノの少女を取り囲む檻のように変化した。
「はい、お母様……」
少女は、消えかけた指で鍵盤を叩き続ける。その音色は、悲鳴のように鋭く、そして虚しい。
「させるか!」
遼司は霊子銃の照準を母親に向けた。だが、撃てない。
楔は母親の精神と深く同化している。下手に撃てば、母親の精神ごと破壊してしまう。
「局長、私が道をこじ開けます!」
星が神気を高め、突撃の構えを取る。
「待て、星! 力でねじ伏せれば、母親は『悲劇のヒロイン』になり、娘の『自己犠牲』は完成してしまう。それでは意味がない!」
遼司は歯噛みした。
ここは「家族」という密室だ。第三者が正論(暴力)で介入しても、歪んだ絆は断ち切れない。
必要なのは、内側からの声――娘自身の「言葉」だ。
「八千代!」
遼司は叫んだ。
「お前の出番だ! 元教師として、そして母親として……あの『毒親』の指揮棒をへし折ってやれ!」
「はい、局長!」
八千代はコートを脱ぎ捨てると、影の棘が飛び交う中を、恐れることなく母親へと歩み出した。
星が慌てて八千代の周囲の影を切り払う。
「お母さん、貴女は間違っています!」
八千代の声が、ピアノの音量に負けじと響いた。
「貴女が愛しているのは、娘さんじゃない! 『自分の理想を演じてくれる人形』です!」
「黙りなさい! 部外者が!」
母親が指揮棒を振ると、影が八千代に殺到した。
だが、八千代は退かない。彼女の瞳には、かつて多くの子供たちを見守り、導いてきた「教育者」としての強い光が宿っていた。
「いいえ、黙りません! 私は知っています。子供が、親の期待に応えようと必死になる健気さを! その純粋さを、貴女は自分のエゴで食い潰している!」
八千代の言葉は、単なる説教ではなかった。彼女自身もまた、母として、そして祖母として、家族への愛と葛藤を抱えて生きてきた。その「情念」の重みが、母親の展開する「恐怖の壁」に亀裂を入れた。
「……うるさい、うるさい! 鈴、最高傑作を見せてやりなさい!」
母親が絶叫する。
少女の身体がいよいよ透き通り、今にも消滅しようとしたその時。
パン!
乾いた銃声が響いた。
遼司の霊子銃だ。
しかし、彼が撃ったのは、母親でも楔でもない。
少女が弾いている**「ピアノの譜面台」**だった。
弾き飛ばされた楽譜が、空中に舞う。
演奏が、強制的に止まった。
「……あ……」
少女の手が止まる。
「音が……止まった……。お母様に、怒られる……」
少女は震えながら、消えかけた顔を上げた。
「ボウズ、いや、お嬢さん」
遼司は硝煙の漂う銃口を下げ、静かに少女に歩み寄った。
「ピアノは、親のために弾くもんじゃない。自分のために弾くもんだ」
彼はポケットから、一枚の便箋を取り出した。それは、先ほどの「強制選別」の応用で、この部屋に充満していた少女の深層心理データ(ノイズ)を凝縮し、具現化させたものだ。
「これは、君が書き損じた手紙だ。君は本当は、こう叫びたかったんじゃないのか?」
遼司は便箋を読み上げた。
そこに書かれていたのは、たった一行。
『お母さん。私を見て。ピアノを弾く私じゃなくて、ただの私を見て』
その言葉が響いた瞬間、少女の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
それは、データとしてのノイズではない。人間としての、温かい涙だった。
「私……私は……!」
少女の声が震える。
「私は、お母さんの人形じゃない……! 私は、生きていたい!」
「鈴……?」
母親が呆然と娘を見る。
その瞬間、娘の身体を覆っていた透明化のノイズが弾け飛び、強烈な「拒絶」のエネルギーとなって母親の背後の影(楔)を吹き飛ばした。
「今だ、星! 母親と楔のリンクが切れた!」
「承知!」
早乙女星が宙を舞う。
「天秤の裁き――悪意の連鎖を断つ!」
一閃。
母親の背後にいた黒い影は、星の刃によって両断され、霧散した。
静寂が戻ったリビングに、少女の嗚咽だけが響いていた。
母親はその場に崩れ落ち、震える手で自分の顔を覆った。
「私……私は、何を……」
八千代が、そっと母親の肩に手を置いた。
「やり直せますよ、お母さん。手紙は、まだ書き直せるんですから」
遼司は、涙を流す少女の頭に、不器用な手つきで自分の帽子を乗せた。
「いい演奏だったよ。最後の『叫び』はな」
阿武隈探偵事務所の局長は、少しだけ照れくさそうに背を向けた。
「佐伯、回収完了だ。……次の現場へ急ぐぞ」
窓の外では、夕焼けが紫に変わり始めていた。
ナイのゲームは、まだ終わらない。最後の、そして最大のターゲットが残っている。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。




