幻影の安息と未来への銃弾
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
夕暮れの佐賀の街角。オレンジ色の光が、古びた商店街のアーケードを優しく包み込んでいる。
そこには、旧支配者のノイズも、デジタルの冷たさもない。ただ、温かい昭和の空気が流れていた。
「あなた、どうしたの? ぼんやりして」
買い物かごを下げた若き日の妻・初喜が、心配そうに遼司(哲信)の顔を覗き込む。その手の温もり、エプロンから漂う夕飯の煮物の匂い。すべてが完璧に再現された、彼の記憶の中の「幸福」そのものだった。
「初喜……」
遼司の口から、無意識に妻の名前が漏れる。
ホムンクルスとしての冷徹な思考回路が、急速にノイズ混じりの「情動」に浸食されていく。ディテクターのアラート音が、遠くで鳴り響く蝉時雨のように頼りなく聞こえた。
『そうよ、お爺様。ここで終わりになさい』
空からバステト神の声が降り注ぐ。
『貴方はもう十分戦ったわ。病に伏し、家族を残して逝った無念……。その魂の傷を、この永遠の夕暮れで癒やせばいい。ここには、貴方が守りたかった「安息」がある』
幻影の妻が、遼司の手を取る。「さあ、帰りましょう。哲人たちも待っているわ」
「哲人が……?」
「ええ、あの子、また新しいおもちゃの設計図を描いたのよ。お爺ちゃんに見せるんだって」
その言葉は、遼司の理性を根底から揺さぶった。孫の成長を見守り、妻と共に老いていく。それは彼が病によって奪われ、二度と手に入らないはずの未来だった。
「局長! 惑わされないで!」
その甘美な世界を引き裂くように、**現在の八千代(秘書)**の悲鳴が響いた。
「それはバステト様が見せる、停滞した過去です! そこに哲人様はいません! 貴方が守るべき哲人様は、今、未来で戦っているんです!」
遼司はハッとして振り返る。そこには、事務服姿の八千代と、レザースーツの星が、夕暮れの風景の中で異質な存在として立っていた。
星が叫ぶ。「局長! 貴方の魂魄データが崩壊寸前です! 過去への同調率が臨界を超えれば、貴方はこの幻影の一部として取り込まれ、SAGA SAGAから消滅します!」
『消滅? 違うわ』バステトが嗤う。『これは「帰還」よ。ホムンクルスという仮初めの命を捨て、愛する妻の記憶の中で眠る。それこそが、貴方にとっての幸福でしょう?』
幻影の妻の手が、遼司を強く引く。その力は優しく、抗いがたい。
(そうだ……俺は、ただ家族といたかった。この温もりの中に……)
遼司の足が、無意識に幻影の方へと踏み出す。
その時、彼の脳裏に、先ほど憂の特別室で見た一枚の写真が過った。
大人になった哲人と、その妻である憂が笑っている写真。
「……違う」
遼司は足を止めた。
「あいつは……哲人は、もう子供じゃない。あいつは大人になり、自分の家族を持ち、この世界(SAGA SAGA)を創ったんだ」
彼は、幻影の妻の手を、そっと、しかし力強く振りほどいた。
「俺が帰るべき場所は、過去の記憶じゃない。あいつが命懸けで作った、この世界の未来だ」
幻影の妻が、悲しげに顔を歪める。「あなた……?」
遼司は腰の霊子銃を抜き、幻影の妻へと向けた。手は震えていた。たとえ偽物でも、愛する妻に銃を向けることは、身を切られるような激痛を伴う。
「すまない、初喜。……だが、俺にはまだ、届けなきゃならない『郵便物(責任)』があるんだ」
彼の隣で、現在の八千代が息を呑んで見守っていた。彼女は知っている。彼が今、どれほどの痛みを伴って、過去の自分(初喜)を拒絶しようとしているのかを。そして、その選択が、自分たち夫婦の過去よりも、孫の未来を優先した「祖父としての決断」であることを。
「八千代」遼司は、隣にいる秘書に声をかけた。視線は幻影に向けたままだ。「俺の照準補正を頼む。……涙で、的が霞んで見えない」
八千代は、溢れそうになる涙をこらえ、凛とした声で応えた。
「了解しました、局長。魂魄解析機、リンク……。ターゲット、過去の幻影。……情動補正、完了!」
「ありがとう」
遼司はトリガーを引いた。
「未来へ!」
青白い霊子弾が、夕暮れの街を切り裂き、幻影の妻の胸を貫いた。
幻影は、穏やかに微笑んだまま、金色の光の粒子となって霧散していく。
同時に、商店街も、夕暮れも、すべてがガラス細工のように砕け散り、冷たい塔の階段へと戻った。
『……見事よ』
バステト神の声が、満足げに響いた。
『過去の安息を捨て、修羅の未来を選ぶ。それが「愛」ゆえの決断だというのなら、認めましょう。貴方は、単なる過去の亡霊ではない。未来を背負う、生きた魂(守護者)ね』
重厚な扉が、轟音と共に開いた。
その先には、塔の最上階へと続く光の道が現れる。
『通りなさい、緒妻 哲信。そして初喜。……大神様の世界を、その不器用な愛で守り抜いてみなさい』
幻影が消えた後、遼司は霊子銃をホルスターに戻し、深く息を吐いた。ホムンクルスの身体が、強制冷却のために微かに蒸気を上げている。
「行こう。哲人の遺物が待っている」
遼司は歩き出した。その背中を見つめる八千代の目には、秘書としての忠誠以上の、深い愛情と誇りが宿っていた。
彼女もまた、夫が選んだ未来を共に守るため、一歩を踏み出した。
塔の最上階。そこには、哲人が夢見た**「未来郵便局」**の扉が、静かに彼らを待っていた。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。




