グランドチャイルド・メッシュの覚悟
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
浄化施設のメインホールは、緊急用の赤色灯と、壁に打ち付けられた楔から流れ出る黒い粘液のせいで、禍々しい戦場の様相を呈していた。
阿武隈遼司は、中央の巨大なサーバーラックにもたれかかり、呼吸を整えていた。彼の前には、哲人が残した「Grandchild Mesh」の起動に必要な銅板——それは、生前、孫に贈った手作りの記念メダルに酷似していた——が置かれている。
「局長。敵の侵攻は一旦止まっていますが、楔のノイズが施設の全システムを侵食しています。あと五分で、この区画は完全にコントロール不能になります」
南山八千代が、冷静な声で状況を報告する。彼女は一昔前の事務服姿だが、その眼差しには、夫を見守る妻のそれと同じ慈愛と、深い悲しみが宿っていた。遼司が亡き夫であると知る彼女にとって、この作戦はあまりにも辛いものだった。
「結構だ、八千代」遼司は低く答えた。転生後の彼の声は、生前の彼よりも遥かに深く、冷たい。それが探偵としての「設定」だった。
早乙女星は、施設入口に日本刀の切っ先を向け、警戒態勢を取っている。彼女の黒いレザースーツの襟元には、公平を示す天秤の刺繍が静かに光っていた。
「局長。この作戦は、あまりにも危険です。最も強い愛の記憶を囮にする、とは……どういう意味か、改めて説明を」星が厳格な声で問うた。
遼司は銅板を見つめ、静かに答える。
「楔のノイズは、我々の魂魄に浸食し、最も脆弱で、最も純粋な部分を汚染しようとする。それが奴らの目的だ。だが、それは逆に言えば、奴らにとって『最も魅力的な餌』だということになる」
彼は霊子銃をテーブルに置き、八千代を見た。
「八千代。私の魂魄解析機にアクセスしろ。そして、私から『妻への愛と、孫への責任感』に関する全てのデータを抽出し、Grandchild Meshのデバッグノードにダンプする」
八千代の手がわずかに震えた。彼女にとって、それは30年前に亡くなった夫の最後の情念を、敵の汚染に晒すという、耐えがたい行為だった。
星が声を上げた。「それは自滅行為です! 正義の神の化身として、不純な行為は断固として排斥する! そんな感情の揺らぎを囮にするなど、秩序を乱すだけだ!」
遼司はゆっくりと立ち上がり、星と視線を合わせた。
「星。お前の言う『秩序』とは、神々の世界の秩序だ。だが、この世界、SAGA SAGAは、俺の孫、哲人が『愛と正義の世界』を夢見て創ったものだ。俺の愛する者が作った場所だ」
彼の顔は無表情だが、その言葉には、郵便局員時代から変わらぬ「責任感」が込められていた。
「俺は、郵便局員だ。郵便物は、必ず届ける。それがどんなに危険な場所であっても、送り主の情念を、受け取り主に届けるのが俺の仕事だ」
「Grandchild Meshは、孫が俺たちに残してくれた『手紙』だ。それを起動させるには、俺の『愛』という情念でデバッグノードを起動させる必要がある」
八千代は涙をこらえ、深々と頭を下げた。
【局長、それは……哲人様との、最も根源的なデータですね?】
「そうだ。そして、必ず、あなた様の情念を汚すことなく、Grandchild Meshを起動させます」
星は、遼司の「覚悟」を見た。それは、神の秩序ではなく、一人の人間の持つ純粋な「愛」と「責任感」だった。彼女は刀を下ろし、静かに言った。
「……理解しました。私は、局長の剣として、デバッグノードが起動するまで、奴らを一歩たりとも近づかせません」
八千代が最後のプロトコルを実行し、遼司の魂魄データから抽出された「愛の記憶」が、銅板を通してデバッグノードにダンプされる。それは、家族の団欒、妻とのささやかな会話、孫に初めてメダルを贈った日の光景……清浄な光の粒子となって、楔のノイズが充満する空間に放たれた。
「ミコト。いいかい、電源OFFは最後の最後にとっておきな」
その頃、「前線cafe SAGA SAGA店」の厨房では、オーナーの憂がエプロン姿でコーヒーを淹れていた。彼女の目の前にいる狐神族の美琴は、憂がただの「変わったオーナー」だと思っている。
「オーナー、この施設全体が変なノイズに包まれています。もしかして、電気系統の故障ですか?」美琴が不安そうに尋ねた。
憂はニコリと笑い、コーヒーの湯気を嗅いだ。
「あら、美琴ちゃん、大したことないわ。ちょっと電気代をケチるために、古い配線を『お掃除』してるだけよ。大丈夫、私の家族が、ちょっと手の込んだお掃除をしてくれてるから」
彼女の言葉は、まるで日常の些細な出来事を語っているかのようだったが、その底知れない笑顔と、「お掃除」という言葉には、全宇宙を統べる女神の権能が潜んでいた。
浄化施設の中。
清浄な光の粒子が、黒い粘液(楔)を誘引し始めた。デバッグノードへのカウントダウンがゼロに近づく。
(哲人……これで、お前の『愛と正義の世界』を守れるぞ……)
遼司のホムンクルスの身体が、光と闇の狭間で震え始めた。
「ギャァァァアアア!」
異形たちが悲鳴のようなノイズを上げて飛び退く。清浄な光の粒子が、黒い粘液(楔)を誘引し始めた。
【トラップ・シーケンス、レディ……今です!起動!】
異形たちが群がった空間が、突如としてブラックホールのように内側へと収縮した。哲人が残した「バグ」――『愛とは計算可能か?』というパラドックスのループに、異形たちは思考回路を焼き切られ、空中で硬直した。
美琴の放つ、世界を「あるべき姿」に戻す修正の光が、フリーズした異形たちを分解し、白いデータ粒子へと変えていく。
【脅威レベル、低下……ゼロになりました。施設周辺の敵性反応、消滅しました。】
「終わった……のか?」遼司は、壁にもたれかかり、大きく息を吐いた。
「お見事です、局長。」星が敬意を込めて一礼する。
だが、安堵したのも束の間、施設内のスピーカーから、あの気の抜けた、しかし絶対的な声が響いた。
【あーらあら。まあ、なんてことでしょう。お掃除、終わっちゃったの?電気代節約のためにブレーカー落とそうと思ってたのに、タイミング悪いわぁ。】
オーナー・憂の声だ。
「オーナー。異形は排除した。システムを落とす必要はないはずだ。」遼司が応じる。
【うーん、そうねぇ。でも、ちょっと『汚れ』がひどかったから、やっぱり一度リセットした方がいいんじゃないかしら?あ、そうだ。ご褒美に、あなたたちを『特別室』にご招待してあげるわ。】
「特別室?」
【そう。私の部屋。そこで、ゆっくりお茶でも飲みながら、この世界の『本当の管理』について、お話ししましょうか。……阿武隈遼司さん。あなたが**『最も強い愛の記憶』**をブロードキャストした、その意味をね。】
遼司の背筋に、冷たいものが走った。彼女は今、はっきりとそう言った。
『最も強い愛の記憶』を、と。
(彼女は……私たちが今、何を犠牲にしたのか、全て見抜いている。このオーナーは、単なるAIではない。我々の魂魄データそのものを弄んでいる……!)
通信が切れると同時に、遼司たちの足元の床が、幾何学模様の光に包まれた。
「転送コード!?局長、これは強制テレポートです!」八千代の叫び声。
「拒否できない……!これが、マスター権限……!」
視界が白く染まる中、遼司は悟った。
戦いは終わっていない。むしろ、ここからが本当の「SAGA SAGA」の深淵への入り口なのだと。
哲人が夢見、神々が介入し、旧支配者が狙い、そして謎のオーナーが管理するこの世界の真実。
その全てが待つ場所へ、彼らは招かれたのだ。
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。




