閑話短編:黄金色の記憶と、黎明の『SAGA SAGA』
この度は、数ある作品の中からこの物語をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。どなたか1人でも、当作品の存在を知っていただけるだけで幸いです。
「おばあちゃん、早く! おじいちゃんを迎えに行かないと」
哲人は、祖母・初喜のシワの刻まれた手を力いっぱい引き、玄関先で急かした。
時刻は十八時を少し回った頃。家々の台所からは夕飯の支度をする包丁の音が響き、夕闇が静かに降りてくる時間帯だ。
祖父・哲信のルーティンは、長年変わることはなかった。朝、自宅から数百メートル離れた停留所からバスに乗り、職場である郵便局へ向かう。そして夕刻、決まった時間の便で帰ってくる。
昭和五十年代後半。それは、退屈なほどに穏やかで、ありふれた日常の繰り返しだった。当時、まだ小学校低学年だった哲人にとって、世の中とは「目に映るもの」が全てであり、その背後にある大人の苦労や社会の仕組みなど知る由もなかった。
空は、古いカラー写真が色褪せたような、あるいは薄茶色のセピア液に浸したような、独特の夕焼けに染まっている。
停留所で祖母と並んで待つ時間は、哲人にとって特別な儀式だった。
「あ、バスが来た」
遠くの角を曲がり、ヘッドライトを光らせた鉄の塊が見える。近づくにつれてディーゼルエンジンの重低音が地面を揺らし、目の前でプシューッという排気音とともに停車した。
「ブーーーッ」
古めかしいブザー音が鳴り、折りたたみ式のドアが震えながら開く。
ステップから降りてきたのは、一本の芯が通ったような長身痩躯の男。上下パリッと糊のきいた、涼しげな薄水色のスーツを完璧に着こなしている。
「おじいちゃん、おかえり!」
「おお、哲坊、迎えに来てくれたのか。ただいま」
哲信の硬い表情が、孫の姿を見た瞬間に和らぐ。
「今日もお疲れ様でした、哲信さん」
初喜が静かに歩み寄り、夫の目を見て労いの言葉をかけた。
隣町の郵便局長として、何十人もの部下を束ね、緊張感の中で一日を過ごしてきた哲信。バスと電車を乗り継ぎ、この停留所に降り立った瞬間に妻からかけられるその一言こそが、彼を「局長」から「一人の男」へと引き戻す、何よりの魔法だった。
「おじいちゃん、鞄持つよ」
哲人は、祖父の手にある黒い本革の鞄を指差した。それは哲信がまだ逓信省に勤めていた頃から愛用している年季の入った品だ。当時はかなりの月給を叩いて買った高級品だったが、今では傷が味わいとなり、深い光沢を放っている。
「哲坊、これは重いよ。おじいちゃんが自分で持つから大丈夫だ」
「いいの! 僕が持つんだから!」
哲信の制止を振り切り、哲人は半ば強引にその鞄をひったくった。
ずしりとした重みが腕にかかり、一瞬ふらつきかける。想像以上の重さは、祖父が背負ってきた年月の重みのようでもあった。哲人は歯を食いしばり、両手でしっかりと鞄を抱え込むと、おぼつかない足取りながらも一歩を踏み出した。
「おじいちゃん、おばあちゃん、早くおうちに帰ろう!」
三人は哲人を真ん中に挟み、家までの道のりを横一列になって歩く。
「今日も、本当にお疲れ様でした」
「……ああ、今日も変わらず、だ」
短い会話。それ以上の言葉はない。ただ、黄金色の夕焼けの中を、三人の影が長く伸び、とぼとぼと自宅へと向かっていく。それだけの、けれど宝石のように贅沢な光景。
***
「……ゆ、夢か」
四十代前半。人生の折り返し地点を過ぎた哲人は、自室のベッドで独りごちた。
頬を伝う冷たさに気づき、指先で拭う。目尻には涙の跡が残っていた。
祖父・哲信は二十年以上前、突如として重い病に倒れ、長い闘病の末にこの世を去った。
その後の現実は、夢のようなあの日々とは正反対の、泥濘のような日々だった。
優しかった祖母・初喜は、最愛の夫を失った喪失感から次第に生気を失い、今は介護施設で意識を閉ざしている。そして、その施設へ彼女を追いやったのは、哲信が遺した財産を骨の髄までしゃぶり尽くした、実子である伯父だった。
哲人の両親もまた、親としての役割を放棄し、全てを初喜と哲人に押し付けた挙句、哲信の他界と同時に哲人を勘当した。
「着の身着のまま」という言葉通り、何もかもを失った当時の哲人を献身的に支えてくれたのは、今、隣で穏やかな寝息を立てている妻の「憂」だった。
彼女との間に三人の宝物にも恵まれ、ようやく自分の「家族」を築き上げることができた。
戦後の荒廃から立ち上がり、高度成長期をがむしゃらに駆け抜けた祖父。
家族に裏切られ、孤独の中で戦い続けた自分。
「おじいちゃんも、あの時、同じような気持ちだったのかな……」
哲人は暗闇の中で自問する。
自分を捨てた実父や、財産を奪った伯父からは、その後も卑劣な要求が続いた。彼らは自責の念など微塵も見せず、当然の権利のように哲人に介護を強要した。
無視して断絶することもできた。しかし、哲人はあえてそれを受け入れた。何もしないことは、彼らと同じ冷酷な人間になることだと思ったからだ。親不孝者という烙印を背負って生きるのではなく、自分の誇りを守るために、自分を捨てた父の介護を七年続け、二年前、ようやく彼を見送った。
それは、自分の家族や仕事を犠牲にする、苦渋の選択だったかもしれない。妻には苦労をかけた。だが、最後まで「義理」を通し切ったことに、哲人は一点の後悔も抱いていなかった。
「……それにしても、なぜあんな夢を」
自問するまでもない。哲人の人格の根底にあるのは、あのバス停で注がれた、祖父母からの無償の愛だ。その記憶があるからこそ、彼は壊れずにここまで来られたのだ。
哲人が数年前から開発責任者として進めてきた「仮想現実世界」の構想。
それは、失われたあの懐かしい時代を、もう一度この手で再構築するための祈りでもあった。
もし、あの世界で再び祖父に会えるなら。
現実世界では果たせなかった「あの時、重くて持てなかった鞄の続きを持つ」ような、些細な約束を叶えたい。
もし「魂」という存在がデータの中に宿るのなら……。
そんな自分勝手な願いを、彼は創造した世界の深淵に、いくつもの「隠しデータ」として刻み込んだ。
そして、新しい世界の幕が開く日。
それが、今日だ。
『SAGA SAGAプロジェクト』。
そのメタバースは、数時間後には世界に向けて起動する。
万全は尽くした。この仮想世界が、今後どのように進化し、人々の心を救うのか、あるいは変えてしまうのかはまだ誰にもわからない。
けれど、哲人はただ願う。
窓の外、夜明けの光が差し込む空を見つめながら。
『SAGA SAGA』の未来が、あの日のバス停で見た夕焼けのように、どこまでも温かく、明るいものであることを。
(完)
この度は、私の作品を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。読書のお一人でも、心に響いて頂けましたら幸いです。




