86:元婚約者の恨み言(イルネオ視点)
イルネオ視点なので、不快に思われる方もいるかもしれません。
今話の簡単なあらすじを次話の前書きに書く予定ですので、心配な方は今話を飛ばして頂けたらと思います。
庶民の飲む安酒など不味いとしか感じられないが、これしかないから仕方なく煽る。
こんなうらびれた酒場など先代王の孫である俺には不釣り合いだが、高級な宿に泊まればすぐ父上に見つかってしまうから我慢するしかない。
本来なら公爵家の屋敷で悠々と暮らしていたはずなのに、身を隠すしかない現状に鬱憤が溜まる。なぜこうなったと思えば、自然と脳裏に浮かぶのは久しぶりに見たエルメリーゼと彼女を庇った男の姿だ。
俺には見せた事がないくせに、エルメリーゼがあの男に向けた安心したような微笑みに苦い物が込み上げる。俺の物だったはずなのに、いつの間にあんな男と情を交わしたのかと怒りで目の前が真っ赤に染まった。
俺が初めてエルメリーゼと会ったのは、八年前に婚約を結んだ時だった。
王命を賜った当初、婚約相手がガーシュ家の娘と聞いて絶望したものだ。俺だって王家の血に連なるというのに、他国の姫をもらう王子たちと違って、なぜ俺が騎士団長の娘と婚約しなければならないのか。
ガーシュ家は代々騎士を輩出しているから、娘もきっとじゃじゃ馬に違いないし、父親と同じく熊のような筋肉に包まれているだろう。
普段父上は俺に、公爵家の子なのだから王族とは違うのだと説き伏せて王家に忠誠を誓うよう求めているのに、こんな時だけ王家の血を持つ者として役に立てと言ってくる。それが腹立たしくて、八歳だった俺は始終むくれていた。
ところがどうだ、会ってみればエルメリーゼは可愛らしい女の子だった。
ガーシュ家の娘らしくお転婆だったようだが、程よく引き締まった手足は健康的に日に焼けて、熊というより小鹿のような愛らしさだ。
性格だって悪くなかった。最初こそ緊張した様子だったものの慣れてきた頃に無邪気に浮かべた笑顔は眩しいほどに輝いて、思わず見惚れてしまうほどだった。
一目で気に入ったが、あれだけ嫌がった婚約だ。今さら乗り気になるのも気まずくて、二人きりになると俺はとにかくエルメリーゼを貶した。
肌を焼くなど女らしくないとか、大口を開けて笑うなとか。好ましいと思って目に入った部分を、俺は悉く真逆に評した。
すると驚いた事に、エルメリーゼは目に涙を溜めながらも黙って俺に従った。
泣きそうになったエルメリーゼの顔はどうしてか俺を高揚させたし、何より俺の言葉に素直に頷き、俺を立ててきた事が嬉しかった。
歳の近い王子たちと常に比べられて、けれど同時に臣下として分を弁えるよう言い聞かされてきた俺が、唯一思い通りに出来る物を手に入れた。そんな喜びに満たされた。
だから俺は、どんどん注文を付けた。俺の言いなりになるエルメリーゼを見ていると、日頃の鬱憤が晴れていくようだった。
だがそれからしばらくすると、今度はそんなエルメリーゼをつまらないと感じるようになった。慣れてしまったのか、俺が何を言っても粛々と受け止めるだけで涙を見せなくなったのだ。そして何より、貼り付けたような微笑みしか浮かべなくなったのが面白くなかった。
その上、エルメリーゼが何にでも真面目に取り組むから、王子たちだけでなくエルメリーゼとまで俺は比べられるようになった。
段々とエルメリーゼは煩わしい存在になっていき、俺は本気で疎ましく思うようになっていった。
そんな俺がマリアージュと出会い惹かれたのは、必然だったと思う。マリアージュは俺を喜ばせるのが上手く、心地良い相手だった。だが所詮はマリアージュも、俺の地位に靡いただけの阿婆擦れだったという事なのだろう。
俺たちの関係は認められなかったにも関わらず、妊娠したなどと嘘まで吐いたマリアージュに未練など何もない。あの嘘のせいで、俺の信用は地の底まで落ちた。あれがなければ廃嫡にまではならずに済んだかも知れないのだ。
俺の手には何も残らなかった事実が、どうにも受け入れられなかった。謹慎を命じられた俺は、どこで間違えたのかとひたすらに悩んだ。
そんな時に耳にしたのが、エルメリーゼの噂だった。隣国で冒険者をしていると聞いた時、あの大人しくつまらない女が冒険者かと耳を疑ったが、同時に幼い頃の彼女が思い出された。
もしかしたら、あの頃のように闊達な娘に戻っているのではないか。そう思っていた矢先に帰国したと聞いたのだ。一目会いたいと領地の屋敷を抜け出し、俺はひたすら王都を目指した。
ようやく会えたエルメリーゼは思った以上に可愛らしい娘になっていた。動きやすそうな服を来てあの頃のように適度に日に焼けた姿は、ドレスなどよりよほど彼女の美しさを引き立てて見えた。
だというのに、俺を気持ち悪いとエルメリーゼは言った。さらに他の男がそばに寄るのを許している。これが憤らずにいられるか。
ましてあの男は、俺を脅してきた。嫡男ではなくなったとはいえ、今も俺は公爵家の人間だというのに。
たかが平民の冒険者の男の脅しに屈するなど屈辱でしかないが、とにかく動けずに引くしかなかった。この悔しさは、誰にも分かるまい。
胸に渦巻く鬱屈とした怒りは、とにかく酒で押し流すしかない。だからこんな酒場の片隅で、一人で酒を飲むのだ。
エルメリーゼを連れ帰れないままでは、抜け出してきた意味がない。あの男を殺してしまえば、エルメリーゼが手に入るだろうか。ガーシュ家と懇意になれれば、父上だって俺を無視出来ないはずだ。
するとそんな事を考えていた俺の手元に、不意に影が差した。
「ずいぶんお辛そうですね。悩み事ですか?」
勝手に向かいに腰を下ろしたのは、フードを目深に被った怪しい男だった。だが高貴な俺からすれば、この酒場にいる全ての人間が異質だ。
追い払おうかと思ったが、酔った口からは自然と愚痴が溢れていた。問いかけてくる男の声が、どうにも振り払い難い魅力的な響きを持ち、するりと心の隙間に入り込んだからかもしれない。
「貴方様はこんなにも尊いお方なのに、その女性は見る目がありませんね」
ほう、今の俺は人の目を忍ぶために地味な装いをしているが、高貴な人間だと分かるのか。
「分かりますよ。私などこうして席を共にするのも許されない、尊いお方です」
口に出した覚えはないのに、俺の考えた事に男は的確に相槌を打ってくる。
いつの間に酔いが回ったのか、周囲の音が聞こえ難いし周りの景色もよく見えない気がする。
「貴方様はこんな所にいていい方じゃない。この国を取り戻すべきではありませんか?」
ああ、そうだ。俺にだって王家の血は流れている。何かが違えば公爵家だけではなく玉座だって手に入れていたかもしれないんだ。
「私でよければ力になりましょう。その女性も、貴方様が王となれば思いのままです」
俺が王になれば、エルメリーゼはあの男じゃなく俺の元に戻ってくる?
「簡単なことですよ。王家に伝わる秘珠を北の霊峰に捧げれば、貴方様は次代の王と認められます。王家の血を引く貴方様なら出来るでしょう」
アルターレの北に位置する霊峰には、不思議な魔力が満ちているという。そこに秘珠を捧げて祈る事で、国王は国を守るに相応しい力を手に入れると言われている。
秘珠が収められている城の宝物庫は王族にしか開けられないが、先代王の孫である俺にはそれを開ける資格があった。
しかし城になど、今の俺が行けるものか。
「大丈夫。これをお持ちになれば、全てが上手くいきます。貴方様は素晴らしい怨嗟をお持ちですから」
目の前にコトリと置かれたのは、闇のように真っ黒に染まった拳大の水晶球だった。言われた言葉の意味を理解する前に、引き寄せられるようにそれに手を伸ばすと、フッと意識が消えていく。
落ちる寸前、視界の端に映った男の口が、顔を裂くように大きく弧を描いているのが見えた。




