始まりの日3
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ガルヒン子爵は戸惑った顔をしたイグナーツ王子からそっと視線をそらせた。
罪悪感からだった。だが、それでも自分の選択は間違っていないとガルヒン子爵は確信している。
ガルヒン子爵家は代々国王派だった。その労が実ってガルヒン子爵の妻は王族の一人だった。つまりガルヒン子爵の七歳の息子にはわずかながら王位継承権が存在することになる。それは、ガルヒン子爵家が長年邁進してきた道のゴールだと言っていい。もちろん、その王位継承権順位は最後に近く、このままではガルヒン子爵家の人間が王位に就くことはないだろうと思われていた。それで充分だと思っていた。
だが、チャンスが巡ってきたのだ。
昨晩、ラテリア教皇に呼び出された時は、ガルヒン子爵はまだ国王派の貴族として現状に憂慮していた。忙しい自分を呼び出しこの危機的状況でなお王国の邪魔をしようとするラテリア教皇に腹立たしささえ感じたものだ。
にもかかわらずラテリア教皇代理ビアンカとの会談を終えたあとは、今まで想像したこともないまったく新しい目的を持った自分に生まれ変わっていた。
新しい目的のために、代々忠誠を誓ってきた国王を陥れることにもはや躊躇はなかった。
(イグナーツ王子、あなたには恨みも何も有りませんが、我らガルヒン家の新しい悲願のために犠牲になってください……)
代々の忠臣に目の前で裏切られてなお戸惑いこそあれ怒りを見せないイグナーツ王子の人のよい顔に罪悪感を覚えながら、ガルヒン子爵はすべての計画の出所であるビアンカ教皇代理を畏敬と共に見た。
ビアンカ教皇代理から提示されたのは恐るべき方法だった。
確かにその方法は、現在ナヴァール聖王国に攻め込んできているオルティガ王国への抑止効果を持ち、同時にラテリア教皇にとってもメリットとなる。ナヴァール聖王国王家を生け贄の羊に二兎を手に入れることが出来る。
すなわち、ナヴァール聖王国そのもののラテリア教皇への譲渡である。
ビアンカ教皇代理からその案を伝えられた時、ガルヒン子爵は驚いた。そして常識にとらわれない奇策を考えたビアンカ教皇代理に恐怖した。
ビアンカ教皇代理の言うとおり、ナヴァール聖王国が教皇の財産となれば、ラテリア教徒であるオルティガ王国は撤退するしかないだろう。そしてその上でナヴァール聖王国はラテリア教皇の名の下に、代理人としてガルヒン子爵によって統治される。
ラテリア教皇は、目の上のたんこぶであるナヴァール国王を排除し同時に念願である国を得て、ガルヒン子爵は実権を手にすることが出来る。
それがビアンカ教皇代理から提示された案だった。
「ガルヒン子爵家の代々の忠誠はよく理解しています。だからこそ安心してナヴァール聖王国の運営を任せられるのです。ガルヒン子爵も当然ラテリア教徒。今後は忠誠を正しくラテリア教皇に向けてください」
恭しく頭を下げながら、代々積み重ねてきた忠誠がある意味評価された、とガルヒン子爵は内心で思った。
ビアンカ教皇代理とイグナーツ王子の話し合いの場ではなるたけ発言を控えるように言われている。王子にとってガルヒン子爵は裏切り者であるし、それによってむきになる可能性があるからだというのだ。イグナーツ王子がむきになった所など見たことがないがとりあえず了承した。
果たしてイグナーツ王子が王権放棄に応じるのか。
ガルヒン子爵はイグナーツ王子を見た。
案外、この飄々とした王子は王権などにこだわらず簡単に応じるかも知れない、と思った。
不思議な人物だ。直接会話したことは数えるほどしかなく、あまりよくは知らないものの、理性的で穏やかな性格だと聞いていた。この状況でなお落ち着いている当たり、噂以上の人物かも知れない。
ガルヒン子爵が見守る中、ビアンカは咳払いをした後、王権について語りはじめた。そもそも王権とはラテリア教皇が授けたものであること。王の権威とはラテリア教皇が授けた王権によって確立したものであること。
実際は、ナヴァール聖王国は初代国王ハルザイ一世が武力で領土を確保したあと、ラテリア教皇がその勢いを恐れて権威を追認したにすぎない。だが、伝説上ではそうなっている。
イグナーツ王子からとりたてて反論がないことに気をよくしたのか、ビアンカは一息に話を進め、王権をラテリア教皇に返上することを提案した。
瞬間、イグナーツ王子は驚いた顔をし、それからホッとしたように見えた。
イグナーツ王子は首をかしげ、
「ともかく周囲のものに図ってみよう」
と言った。
ビアンカ教皇代理も
「そうして下さい。ただあまり時間はありません」
と答え居住まいを正し、それからイグナーツ王子に向かって
「それとこのあと少し時間をいただけないでしょうか? 二人きりで話したいことがあります」
その発言は予定にはなかったものでガルヒン子爵は少し驚いたが、ビアンカ教皇代理のことだから何か意図があるのだろうと思った。
イグナーツ王子はもう一度首をかしげ、それから一つうなずき、
「分かった」
と答えた。
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