始まりの日
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ハッと目が覚めた。
寝過ぎたぞ、会社に遅れてしまう、と次晴は半身を起こしかけて、
「……今何時だ?」
と言った。それから激しく混乱した。
(……なんだ? 俺は何でこんなことを考えている?)
そう考えたのは次晴ではない別の人間だ。
イグナーツ=ナヴァール。二十二歳。
ナヴァール聖王国の第二位の王位継承権者である。
だが同時に小山内次晴でもある。
訳が分からない。
次晴=イグナーツは目を閉じ、大きく息を吐いた。
冷えた空気が肺に入ってきて同時に冷静になった。
もともとあまり感情の起伏が激しい方ではない。家族が亡くなった時も冷静に対応できた。
次晴の両親が事故で亡くなったと聞いた時も。
一昨日、イグナーツの父王が戦場で討たれたと聞いた時も。同時に第一位の王位継承権者であり仲がよかった兄オスカルが行方不明だと聞いた時も。
次晴の両親が死んだのは二年前だが、イグナーツの父王が討たれたのはつい二日前の出来事だ。
よし、平気だ。
と改めて周囲を見回す。
もうすでにわかっていた。ここは現代日本ではなく、ナヴァール王国という中世のヨーロッパを思わせる世界に存在する国である。
その証拠に、寝ていた部屋は次晴の六畳フローリングではなく、細かな刺繍を施されたナヴァール聖王国の旗が壁の一面に掛かっていて、断熱効果の面ではまったく機能的ではない石造りの部屋だ。すなわちナヴァール聖王国の城の奥にあるイグナーツが住み慣れた第二王子の部屋だった。
つまり、転生したのかなんなのか突然イグナーツ王子に小山内次晴の記憶がよみがえった、ということらしい。
「……まぁ、こういうのは小説で読んだことがあるがまさか自分の身に降りかかるとは思わなかったぞ。それとも実はこっそり頻繁にあるのかな?」
二つの記憶が混在しているがあまり違和感はない。どうやらもともと似たような性格だったようで、それが原因かもしれない。イグナーツが次晴の身体に表れたとしても同じように考えたことだろう。
ふむ、と首を傾げ、この状況について考えた。だが取り立てて問題は感じられなかった。むしろこの手の小説にあるパターンとして、この世界においては現代日本の記憶があることは様々なシチュエーションでプラスに働くはずだった。少なくとも物語内ではそうなっていた。転生ものだと突然異世界に投げ出されて何の知識もない状態でたいそう困ることがあったりするが、この世界の知識があるという今の状況においては、そういった危機感は感じない。
とはいっても問題がないわけではなかった。
イグナーツの現状を記憶の中で確認する。
実はそもそものんびり寝ているような状況ではなかった。
この世界には七つの国がある。
ユダル帝国。
オルティガ王国。
ジュノーン共和国。
フェレス王国。
マルティダ王国。
ザレス教団。
そしてナヴァール聖王国。
その中の一つ、オルティガ王国が突然ナヴァール聖王国に攻め込んできたのである。つまりナヴァール聖王国は目下戦時下なのだった。しかも王が戦死し、王太子も行方不明。さらに王が主催する実質的な内閣である六人の王前評議会の面々も五人出撃し二人は大怪我、一人は死亡と、ほぼ機能を失っていた。出陣した者達は、大怪我をした者もそうでない者もいまだ王都には帰還できておらず、とりあえず王位継承権第二位の自分が、滅びかけのナヴァール聖王国の暫定トップいうタイミングなのだった。
「全くめんどくさいときに、めんどくさいことになったなぁ……」
次晴は一人ごちて、頭をかいた。
それからふと思い出して顔をしかめた。
「あれ? 俺が転生したってことは、もしかして俺って死んだ? え? じゃあ、真由はどうなる?」
少しうろたえた次晴は立ち上がりうろうろと部屋の中を歩き回り、それからどうしようもないことを思い出し、
「……悪いことをしたなぁ。ひとりぼっちにしちゃってごめんな、真由」
虚空にそうつぶやいた。
その後、次晴は夜明けまで二時間ほどをベッドの中で過ごした。
オルティガ王国の侵攻と思いがけない国王の死によってナヴァール聖王国は混乱し、城の面々はほぼ二日間不眠不休で対応し疲労困憊していたため、昨晩城の最高権力者として夜明けまでの休息を命令したのだ。そんな状況で次晴が起きてしまえば当然お付きの者や執務機関も活動再開を余儀なくされてしまうのである。王子たる者、そのような配慮も必要なのだった。
そんなわけで、次晴は電気がまだないため明かりもない中ぼんやりと天井を見ながら、
「……うーん」
とうなった。
とりあえず休息を命じはしたものの状況は楽観視できなかった。
ナヴァール聖王国は七国の中では最古の歴史を誇り文化的な中心として諸王国から尊崇を集めているものの、その事実にあぐらをかいていたため正直軍事力では七国中最弱である。そもそも本格的な戦争さえナヴァール聖王国においては百年近く行われていない。
にもかかわらずイグナーツ王子の父親であるフゼル四世は攻め込んできたオルティガ王国軍と正々堂々と正面から戦い、当然のように撃破された。撃破されただけでなく、討ち死にまでしてしまったのだから救いがなかった。
現在、ナヴァール聖王国は先の一戦に出撃しなかった残兵を含め、かき集められるだけの軍はかき集めているが数はせいぜい三千と言ったところで、七万人を動員しているオルティガ王国軍には遠く及ばないのである。
幸い、ナヴァール聖王国の王都ハルザイには高く分厚い城壁があるためオルティガ王国も簡単には攻められないはずだ。城壁で守っているうちに、オルティガ王国との和睦の道を探す、と言うのが現実的だろう。
とは言うものの、オルティガ王国の目的も不明瞭であり
「……前途多難だ」
と次晴はため息をついた。
ベッドの中で善後策を色々考え続け、南の空が白くなり始めた頃、突然、城内に活気が戻ってきた。まだ命じた起床時間には30分ほど余裕があるはずだった。
「……ん?」
と外の様子をうかがうと、遠慮がちなうべないの声が掛けられた。
「イグナーツ王子殿下、早朝に申し訳ありません」
「いいよ、気にしないで……で、なにかな?」
「ラテリア教皇一姫、ビアンカ様がお見えです」
次晴は頭を抱えた。
「……あちゃー」
ラテリア教皇は十三柱の『貌のない神々』が残した遺産『墓所』の管理団体であるラテリア教団のトップである。つまりこの世界すべての『貌のない神々』信奉者を統括する宗教のトップであり、同時にこのナヴァール聖王国内に広大な教皇領を持つ大貴族でもあった。『貌のない神々』への信仰はこの世界においてもっとも普遍的なものであり、信徒の数字を考えると、ラテリア教皇は諸王国の国王よりも強大な力を持っていると言えた。その存在がナヴァール聖王国が他国に攻められなかったことに繋がっているのだが、ラテリア教皇領がナヴァール王国内にあることは、ナヴァール王国にとって代々頭痛の種で、当然のことながら国王と教皇の仲はずっと険悪だった。現ラテリア教皇シュタイフ二世は病弱で、あまり表舞台に姿を現さなかったが、その代理を務める一人娘ビアンカはイグナーツと同世代でありながら聡明さと強引さとで有名であり、イグナーツは常々苦手としていた。
扉の外から遠慮がちな声が続けられた。
「ビアンカ様は直ちに殿下をお呼びせよ、と」
「……ん。分かった。行くから待ってて。ビアンカ殿もさすがにこの時間に僕がすぐに現れることは期待してないでしょ」
「それが……この一大事になぜ寝ているのか、とたいそうおかんむりでございまして……」
次晴は跳ね起きた。
「わかりました。急ぎます!」
呼び鈴を鳴らすと、二人の侍女が部屋に入ってくる。母親ほどの年齢の女性とまだ若い二人組だ。実際この二人は親子で、サマンサとメリサという。二人ともイグナーツ付きの侍女で、サマンサは四十歳。メリサは十八歳だ。ちなみについ先日までイグナーツは第二王子に過ぎず、お付きの侍女は二人である。王太子である兄オスカル付きの侍女は二桁なのだが。
「こんな時間にまったくビアンカ様にも困ったものですわ。お衣装はこちらで」
「うん、それで」
「お顔はおきれいなんですけどね、あのご性格じゃあもらい手もなかなかいないんじゃないかしら。冠はどういたしましょう?」
「公式な対面というわけではないからいいんじゃないかな」
「まったくイグナーツ様はぼんやり王子とか呼ばれていますけど、正真正銘王家の血を引いた王子ですのに」
メリサが母の袖をくいっと引く。
それで初めて自分が王子をけなすあだ名を呼んだことに気づいたサマンサは、だが気にする様子もなくころころと笑い、
「だからイグナーツ様がもっとしゃんとしないといけないんです!」
と次晴に責任を転嫁した。
いつものことなので次晴も苦笑するだけだ。
サマンサはしゃべりながらてきぱきと次晴に衣装を着せ、メリサは黙ってお茶のためのお湯を沸かす。
きらきらしている分ずいぶんと重たい衣装に着替え終わったタイミングで、ちょうどお茶がいれ終わっていて、カップに入れられた状態で次晴の前に置かれた。
熱すぎずぬるすぎないそれを口に含み、
「うん。いつもながらおいしいよ」
メリサは黙ったまま一礼した。
メリサはほとんどしゃべらない。ほっそりとした美人なのだが、しゃべらないせいで城内でも取っつきにくい人間と思われているようだ。
もったいないと次晴は思う。美人でスタイルもすばらしくいいのに……。
「?」
メリサが首を傾げた。
何でしょう、という意思表示だった。どうやら次晴はお茶のカップを手に、ぼんやりメリサを眺めてしまっていたらしい。
「ああ、いや何でもない。ごめんごめん」
メリサは黙って頭を下げた。
「じゃあ、ビアンカ殿に会ってくるか。気は乗らないけどね」
次晴はため息をついてからカップを置いて立ち上がった。
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