9. 下の名前で呼び合うと距離が縮った気になれる
テレビから流れる朝のニュースが右から左に抜けながら賢木の背中を見ていた。気がつくとうなってしまっていた。
「どうした。朝飯の量が足りなかったか?」
会社にでかける支度をしていた賢木がこちらに体をむける。
「いや、ご飯はおいしかったよ。個人的なこどだから、気にしないで」
大丈夫というように賢木に向かって口の端をあげてみせる。
雰囲気でたいしたことはないと察してくれたか、視線を鏡に向けてネクタイを締める。
悩んでいるのは、事実、たいしたことではない。
この前買ったプレゼントのネクタイはいまだに部屋の隅に置かれたままだった。
『これ、お礼』
『いままでありがと』
『あんたに似合うと思って』
うーーーーーん……、なんて言って渡せばいいか思いつかないままだった。
横目で賢木の姿を追いながら、ふと思うことがあった。
賢木に世話になってから3週間、誇れるほど素晴らしいできごとも、嘆くほど哀しいできごともない。とりとめもない日常を過ごすうちに埋没していたはずの不安が頭をもたげていた。
「ねえ、世話になっといて聞くのもあれだけど、あたしってまだここにいてもいいのかな?」
「家に帰りたいのか?」
「……家には帰れないし、帰るつもりもないよ。ただ、ちょっと聞いておこうかなって」
今日の自分はずいぶんと弱気である。ソファーの上でひざをかかえるあたしの顔を賢木が覗き込もうとする。
「あー、ごめん。いまのなし。やっぱいいや」
不安よりも羞恥心のほうが勝り、ソファーから勢いよく立ち上がる。
「あと、今日は部屋で寝てるから夕飯とか用があるなら起こして」
「本当にだいじょうぶか?」
「体がだるいとかじゃなくて、なんか眠気が抜けないんだよね~」
くふぁとあくびが漏れそうになるのを右手で口をふさいでかみ殺す。
「そんなに心配そうな顔しないでよ。ちっちゃな子供じゃないんだから、自分のことぐらい面倒みれるから」
身体をかがめてこちらをみる賢木の額をちょんと押してやる。賢木はこちらを気にするように一度振り向いてから玄関をしめた。
「やっといったか。ほんと、なんでこんな眠いんだろう……」
一人になると重い頭を抱えながらベッドに向かう。倒れこむように寝ると、体をロープでぐるぐる巻きにされて重石を乗せられたように体が動かなくなった。
最後にまぶたを閉じると、スッと意識が遠ざかっていった。
ん……?
眼を開けているのに視界がぼやけていた。
なんとなくだけどこれが夢だとわかった。
それにしても、これほど意識がはっきりしたものは見たことがない。そもそもあたしは夢をほとんど見ない。
「ぼんやりしてないでちゃんと聞いているの!」
最初に聞こえたのは怒鳴り声だった。びっくりしながら視界がクリアになっていく。
線の細いおばさんが眉間にしわをよせて睨んでいる。彼女から視線をはずすと、天井や壁の白さが目に入った。ローテーブルの置物までぴかぴかで、汚れというものを憎んでいるんじゃないかというぐらい清潔な部屋だった。
「どうしたの××、きちんと返事しなさい!」
「……××?」
『××』という言葉が人の名前だと理解した。しかし、心当たりがない。
もう一度、おばさんを見る。やっぱり見覚えのない人だ。うちの母だったらもっと恰幅がいいはずである。
ここがどこなのかと質問しようとするが、口を開く前にまくしたてるように色々とわめきたてる。話を理解できずに黙っていると「もういい!」と別の部屋に消えていった。
乱暴な足音が遠ざかり、金切り声でじんじんする耳を手で押さえる。あんなのが母親だったら、子供はさぞかし気詰まりだろう。
玄関にはかかとをきっちりそろえた靴が等間隔にならべられていた。
ぴかぴかに磨かれたハイヒールが並ぶ中で、くたびれて汚れたスニーカーを選んだ。初めての靴のはずだったけれど不思議と足になじんだ。
外に出る前にちらりと見た表札には『××』と書かれていた。
「××……××××……」
口に出してみるがやっぱり聞き覚えのない名前だった。
早く自分の家に帰ろう。
あれ、あたしの家って、なんだっけ?
目が覚めると、蛍光灯の光が網膜を焼いた。
薄目を開けると、こちらを覗き込む賢木の顔が見えた。
「わ、わ、わ、びっくりした」
慌てて上体を起こす。
よく見ると自分がいるのは部屋の隅っこだった。
なんだろうね、これ? ベッドに寝ていたのに部屋の隅っこで膝を抱えて丸くなるなんて驚きだよ。
「いや~、たまにはさ。ほらっ、気分を変えて部屋の隅で寝るってのもいいかなって思ってさ」
自分の寝相に呆れながら照れ隠しに笑ってみせる。さっきまで見ていた夢の内容もすっかり頭の中からなくなっていた。
そんなわたしを見る賢木の顔は心配そうだった。
「大丈夫だってば、何かあったらちゃんと言うからさ」
「そうか、それならいいが……」
賢木はそういったきり言葉を切る。しかし、まだ何かいいたげにこちらを見ている。以前だったらもっと他人事で無関心だったはずだった。
ここに来て二週間がたつが、賢木は不器用ながらも優しくしてくれる。それは恋人というよりも年上が向けてくる種類ものであったが。
「あのさ、あんた、最初のときとなんか変わったね」
「そうなのか?」
否定はしない。もしかしたら自分でも気づいているのかもしれない。
「とりあえず、ごはんにしよ」
不思議なもので、寝ているだけだったのにおなかが減っている。昼食分も含めておかわりを重ねる。
賢木は茶碗にごはんを半分残して席を立つ。
戻ってくると、急須を茶碗の上で傾ける。
「ほんと、それ好きだよね。ほら、これもいるんでしょ」
冷蔵庫からとってきた梅干を渡す。
あたしも一緒にできあがったお茶漬けをさらさらと流し込む。これが夕食のしめだった。年寄りくさいと思うが賢木にとって長年の習慣らしい。
食事を終えるとリビングのソファに席を移す。食器を片付けて隣に座ると賢木がこちらを見ていた。
「さっき言っていたことだが、本当か?」
思い切って言ったみたという気配が感じ取れた。
「何が?」
「私が変わった、とキミが言っていたことだ」
こんな風に聞いてくるなんて、よっぽど気にしていたのかと思わず笑ってしまった。
「なんとなくだよ。どう、当たってた?」
いつも通りの無表情であったが、納得いかないといった感情は見えた。
「あとさ、これを機会に名前でちゃんと呼んで欲しいな。いつもキミとかって呼ぶだけだし」
「華原萌果……、これでいいのか?」
「病院の受付じゃあるまいしフルネームで呼ばないでよ。ものすっごい距離置かれてる感じがする。ほらほら恋人ならどんな風に呼ぶのかな?」
少し間があく。目の前の人間に不安になっている自分がいた。
「萌果」
「うん……」
そう、それがあたしの名前だ。よかった。