6. ドキドキした
外は相変わらず暑い。マンションのエントランスをでると凶悪な陽射しが噛み付いてくる。
うらめしげに視線を太陽に向けていると、賢木は暑さなど気にしないようにさっさと歩き出す。清潔そうな白のシャツはきっちりと胸元までボタンをとめて、この暑さの中で汗をかいた様子もない。
「なんだ?」
「……なんでもない」
賢木が不思議そうにこちらを見ているが、精一杯意地を張ってしゃんと背筋を張ってみせる。
「今日はなにする予定なの?」
賢木が懐から取り出した手帳にはこれまでのラブコメごっこのリストが箇条書きにされている。終わったものにはチェックが入れられ、ページにはまだ残りがある。
近くのバス停に向かって通りに出た。片側一車線で歩道との間にガードレールもない狭い道だ。国道の裏道として使われるようで、それなりに車の通りは多い。
賢木は何も言わずにスッと位置を入れ替えて、車道側を歩く。これが彼氏らしい行為らしい。
「あー、手ぇつなぐ?」
「行動の制限につながる。遠慮する」
やはり、こいつの基準がよくわからない。
あたし自身も彼女っぽいことができているのかと言われると首をひねる。賢木からは特にクレームもないようなので、まあいいかと現状維持だ。
とにかく今はクーラーの効いたバスに早く乗りたい。
しかし、ここからバスに乗るのはだいぶ先になるとは思わなかった。
「賢木ってば、前見て歩きなよ」
さきほどから賢木は黙ったまま考え込んでいる。
その原因となったのはわたしの何気なく発した言葉だった。
―――わたしたちは恋人らしくできているのか、と
そこから『恋人らしさ』について、賢木は思考の迷路をさまよっている。とうとう、賢木の足が止まってしまった。
路上で立ち止まったまま賢木は動こうとしない。
三輪車にのった男の子が不思議そうに賢木を見ている
暑い……。せめて、どこかクーラーの効いた喫茶店でも入ってからにしてほしい。
「えっと、学校でカップルを何組かみたことあるけどさ、みんなドラマみたいにしてるわけじゃなかったよ。だからさ、そんなに悩まなくてもいんじゃない」
「興味深い。それで、キミから見た彼らはどうだった?」
「仲のいいのときもあれば、口ゲンカしてるとこも見たよ。必ずこうだっていうのはいなかったかな」
カップルというのはただの男と女が一緒にいるというのではなく『ああ、この二人は確かに恋人なんだな』っていうのがなんとなく感じることができる。
「決まった形がないとすると、恋人らしさというテーマ自体が意味がなくなってしまう……。まだ何か足りないというのか……」
さっさとこの状況をなんとかしようとした結果、余計に賢木は思考の中に沈み込んでいく。
賢木はぶつぶつとつぶやきながら、考えをまとめるように手帳に何かを書き付けている。
もちろん賢木こそ、外で多くの恋人たちの関係を見てきたのだろう。だが、言葉にできない心の機微にはあまり興味がないのかもしれない。
「あー、もう、好きなだけ考えててよ」
長くなりそうなのでせめて日陰に避難しようと、周囲を見回したときだった。
わき道から甲高い悲鳴が聞こえた。
ぎょっとしながら首を傾けると、坂の上から三輪車にまたがった男の子がかなりのスピードで下ってきている。
「げっ、まじで!?」
速度を抑えきれず必死にハンドルにしがみつく男の子と目が合った。目元に涙を浮かべながら必死に助けを求めている。
このまま止まらず突っ込めば、車が行き交う通りに飛び出すことになる。それから起きる出来事を想像すると無意識に足が前にでていた。三輪車の正面で足を開き、両手を開いて構えた。
何も考えずに駆け出したが、いざ正面からせまってくる勢いを前にすると尻込みしたくなる。
このとき思い出したのは、小学校のころドッヂボールをしていたときのことだった。両手を前に構えていたはずなのに、気がつけばボールが顔面にヒットした。スーと流れていく鼻血は鉄くさかったなぁ。
そして、小さい頃の癖というのは直らないようで、やがてくる衝撃を前に目を閉じてしまった。
不思議に音が消えて、しばらくの沈黙が続いた。
「…………あれ?」
うっすらとまぶたを押し開くと目の前には大きな背中が見えた。
「賢木……?」
静けさを破ったのは子供の泣き声だった。火が点いたように顔を真っ赤にして泣いている。胸で受け止めた男の子を片手で抱え上げて、もう片方の手で三輪車をぶら下げる。
坂の上からは、ばたばたという足音をたてて転がるように走ってくる母親らしき女性の姿が近づいてきていた。子供の名前を叫びながら、泣きそうな顔をしている。
「ママぁ!」
男の子は叫ぶと、賢木の手から抜け出して母親の腰にしがみついた。母親も子供の存在を確かめるようにぎゅっと抱きしめた。
「ありがとうございます! ありがとうございます!」
「気をつけてあげてくださいね」
半泣きの顔で何度も頭を下げる母親に、賢木はそれだけを言って去っていく。あたしだけが残っているわけにもいかず後を追いかけた。
バス停にたどりつくが、さっきの騒動で一本遅れて乗ることになった。
並んで立つ賢木を見る。その手は男らしく大きくごつごつとしていた。
「あのさ、どっかケガとかしてない?」
「問題ない」
そっけなく答える賢木の澄まし顔をみながら、くそっと内心で歯軋りをする。こんなやつに助けられてしまった。しかもそれをちょっとうれしいとか思っている自分がいることがなおのこと腹立たしい。
こいつと仲良くしてもしょうがないのに、ただのお金だけの関係のはずだ。
「なんだ、妙な顔をして?」
「うっさい、だれが変な顔だ」
ああ、どうしてこんな態度をとってしまうのだろうか。
視線をを上げて賢木の顔を睨みつける。
そうすると力強さのこもる瞳でまっすぐにこちらを見てくる。
「……とりあえず、助けてくれたし……ありがと」
「そうか」
あたしたち二人に恋人らしさが備わるのは難しそうだった。