3. シチュが大事なんですよ
部屋で過ごす賢木は手持ちの恋愛小説を片っ端から読み返している。ページのあちこちに付箋が貼ってあった。まめだなぁと素直に感心する。
「……やはり恋人らしいイベントとはデートに集約されるようだな」
デートといえばこの間のショッピングモールだった。
「とりあえずは練習だ」
そうして賢木が提案するのは、あそこで見たカップルの一例。バカップルによる食べさせあいっこであった。
「あのときはやらなかったのに、どうしてよ?」
「キミが恥ずかしそうにしていたから、ここなら人目もない」
「まあ、たしかにそうだけど……」
いまいち納得できないまま、すぐに用意できそうなお茶とお菓子で実践することとなった。
「えーと、ほら、あーん」
あのときを再現するように、クッキーをつまんで賢木の口元へと近づける。
いざ真正面からやるとかなり気恥ずかしい。
やや顔を突き出すようにする賢木に口の中、舌の上にお菓子をのせた。
わたしの前で真面目腐った顔の男がばりばりと咀嚼している。なんだこれ……。
なんというか無愛想な犬にエサをあげている気分だった。
口の端についていたカスをティッシュでぬぐってやる。
それから、お茶のカップを口元へと差し出した。
さすがに呑みにくいようなので、自分でうけとって飲み始めた。
これが『いい雰囲気』なのだろうか。むしろ、手のかかるおっきい子供の世話をしているようにしか感じない。
「今度は私の番だ」
目の前に差し出されたお菓子に食いつく。運動会のパン食い競争は得意だった。
お菓子を口に含むときに、指先が賢木の唇に触れる。こそばゆい。
「どうだ?」
どうだ、と聞かれてもさくさくとした軽い歯ざわりと甘い味が口の中に広がっているとしかわからない。
「まったく恋人気分じゃありません」
「そうか……。何が足りないのだろうか」
重要なのはシチュエーションとそれにともなうテンションの上がり方だ。それをこの男に説明しなければならないと思うと疲れを感じる。
「そうか、シチュエーションがまずいのだな」
「お、意外とわかってるじゃん」
「例えば古典のラブロマンスだが『ロミオとジュリエット』があるな。敵国同士の王子と姫が恋をする物語だ。大事なのは障害とそれを共に乗り越えてわかり合うということではないだろうか」
「う、うん……?」
わからなくもない。うなずいてみせると、賢木と一緒に出かけることになった。
夕暮れ時の川辺には犬の散歩をしているおじいさんや、自転車にのった学生とすれ違う。
「はぁ、はぁ、ちょっと……まって……賢木、早いってば」
ジャージ姿でわたしたちは土手をランニングしていた。前を走る賢木を追いかけていたが、息が限界になり土手に転がる。草と土の匂いが汗のにおいと交じり合う。
脱いだ上着を枕にしようとすると、裏には『レンタルライフ』と刺繍されていた。たしか、どんなものでもレンタルできるというのを売り文句にしている会社の名前だったはず。
女物のジャージなんてどこからか用意したのかと思っていたがレンタルしたものらしい。あまり汚すわけにはいかず体を起こす。
「よくがんばったな。これで5kmの距離だ。それで、どうだ?」
賢木は息を切らさず、その場で駆け足をしてクールダウンしている。こちらを見下ろしてくる表情は部屋にいたときと一緒だった。
「『どうだ?』じゃない! あんた、ちょっとそこに座りなさい!」
ばしばしと地面を叩くと納得できない顔で賢木が腰を下ろす。
「いい、シチュエーションってのはそうじゃないでしょ! 例えば、あんたが彼女になった場合、彼氏をどう思うかを想像してみなさいよ。どこの世界に息が切れるまで走りこんで恋が芽生える男女がいるんだよ!」
「なぜだ……、共に困難を乗り越えるというのはよくある状況ではなのだろう?」
賢木ははてなマークを浮かべている。
「理屈で割り切るのもいいけど、少しは恋愛ってものに感情移入してみたらどうなの。恋愛してみたときの自分の気持ちを想像してみたらいいんだよ」
「……恋人としての、気持ちか」
つぶやくと、あごに手を当てて考え込みはじめた。
実際に恋愛経験のない身から語ったことだ。そこまで真剣に悩まれると正直困ってしまう。
「たとえば、たとえばの話だけどさ。いっしょにいる男は無愛想で面白い話をするタイプじゃない。なんだか物足りない気がするけれど、彼の持つ柔らかさや優しさは嫌いじゃない。一番重要なのは一緒にいると嬉しくなってドキドキしてくる、とか」
自分の想像を一方的に語っているということが恥ずかしくなってきた。おい、メモするな。それをよこせ。
「参考になった。感謝する」
奪い取ろうと手を伸ばすが、パタンと閉じられた手帳が賢木のポケットに押し込まれてしまった。
マンションに向かう道を一緒に歩きながら隣にチラリと視線を向ける。まるで自分がなんでもない日常にいるような気分になれた。