2. ラブコメってなんだろうね
カーテンの隙間から入り込んだ朝のやわらかな陽射しに、まぶたをゆっくりと押し開く。
「…………あー、そっか」
ぼんやりとした視界に入ってくるのは見慣れない部屋。清潔そうな真っ白な壁紙と物が置かれていない様子は病室のようにも見える。ベッドの上で身を起こし、焦点が合ってくるとようやく昨日のできごとを思い出す。
あの日、ぼんやりとした頭に最初に見えたのは電車の中吊り広告だった。
レンタルライフ株式会社という文字から視線をはずすと、車掌のアナウンスが流れる。
人の波にのってホームへと降り立った。
違和感はあった。なんとなく感覚に従って電車から降りたが、正体のわからない不安はなくなるどころか強くなっていった。
知っている場所なのに、むこうは初対面のようによそよそしい。まるで、世界が少しだけずれたような感覚だった。
家でゆっくり寝れば治るだろうと玄関を開けたとき、その違和感は決定的なものとなった。自分の家のはずなのに見知らぬおばさんがでてきたのはさすがに脳の許容量をオーバーした。
しばらく固まっていたのだろう。110番をしだしたおばさんの剣幕に慌てて逃げ出した。振り向いて、家の表札を見ると『田中』と書かれていた。
華原萌果。それがあたしの名前である。混乱した頭で周囲をみまわすと、見慣れたはずの近所も記憶と違っている。
スマホに登録してあった友人のアドレスは全部消えていた。
なぜ、ここにいるのか?
なぜ、こんな目に会うのか?
主人公には心当たりがまったくない。
そんな設定の映画や小説をいくつか見たことがあった。
今のあたしの状況―――例えるならそれらの作品に似てると思った。
家に帰ったはずのあたしはわけもわからないまま駅前に戻っていた。そうして、見知らぬ男の家で起きたというところまで思い出した。
スマホの画面には『6月26日(日)』と表示されている。特に誰かからの通知はない。
「えーと、おはよう」
昨日知り合ったばかりの男の家でどうやって振舞えばいいかわからず、遠慮がちにリビングの扉を開けた。
部屋からでると食欲を刺激する匂いが鼻をくすぐった。食卓に並ぶのは狐色のトーストに、サラダ、ベーコンエッグという完璧な朝食。
「起きたか、まずはその寝ぼけ顔をあらってくるといい。食べながら今日の予定について話そう」
真っ白なリネンシャツの上からエプロンをつけ、料理の皿を置く動きには無駄がない。
洗面所からでると、賢木の向かい側の席に座った。
「いただきます」
彼の視線は手元で広げている手帳に向けられている。
『大型ショッピングモールでデート』
これが今日の予定らしい。
とりあえず無難なところから始めるようで、安心していた。
しかし、世の中には理不尽なことが多い。
それは十七年間生きていると、いちいち経験した理不尽を数えたりしなくなる。世の中そんなもんだよなぁとあきらめもつく。
しかし、現在進行形で理不尽な光景が目の前で繰り広げられている場合はどうだろうか? 理不尽に対して怒りは湧いてくるわけで、その怒りにも限界があるわけだ。
現在の場所は大型ショッピングモールのフードコートだった。ファストフードからクレープ、ドーナツと甘いものもそろいお子様にも大人気の場所である。
賢木にとっては初めての場所らしく、不慣れな様子であちこち見回していた。
ギリギリの間隔でずらりと並べられたテーブルには、暇を持て余した老人や、子供の連れの主婦、さらには学校帰りの学生の姿が見える。
その中で賢木が選んだテーブルは、大学生ぐらいの若いカップルの近くだった。
「ほら、あーんして」
「あーん」
「もう焦っちゃだめだって、顔にクリームがついちゃうよ」
「別にいいじゃん」
「もう、だめだって」
肩を寄せ合い、ドーナツを食べさせあいっこしている。
「早く食べさせてくれよ」
「おいしいんだからゆっくり食べようよ」
女が差し出したドーナツを男がかぶりつく。口いっぱいいほおばりもきゅもきゅと口を動かす男を見て、女が幸せいっぱいの笑みを浮かべる。
あたしの状態はというと、今すぐにでも席を立ってここを離れたかった。むしろ、目の前の椅子を蹴っ飛ばしてやりたい。実際、さっきからその衝動に負けて足を上げかけた。しかし、隣に座る賢木によって邪魔されている。
「ねえ、賢木。そろそろ行こうよ」
「まだだ」
その様子を賢木が食い入るように見ている。手元のメモ帳の上でペンを走らせている。まるっきり不審者であるが、自分達の世界に浸るカップルは気がついていない。
高級マンションに住むこいつにひとつ庶民の暮らしを見せてやろうとしたことが間違いだった。
『フードコートって知ってる?』
『なんだそれは?』
その結果がこれだ。
賢木の中では彼らは青春を送る貴重なサンプルなのだろう。そういえば、駅前で会ったときの賢木はカップルばかりを観察していた。
こいつの努力の方向性は理解できないが、雇われた身としては協力しなくてはならない。
「あ、あのさ……」
「なんだ?」
だから、あたしはがんばってみることにした。
視線だけを向けてきた賢木の前に、爪楊枝で刺したたこ焼きを差し出す。
鋼色をした一対の瞳が青海苔と鰹節をのせた丸い物体をじっと見る。しかし、それ以上の反応はない。
沈黙が続く。一秒、二秒、三秒―――。
結局、たこ焼きは自分の口の中にいれた。
最悪だ。最低だ。
「今の行為の理由を問いたい」
わざとではなく心底から不思議そうに聞いてくることが余計に腹立たしい。
とりあえず今日の経験を記録する。
スマホを構えて写真を撮った。
そこには口元に青海苔をつけて仏頂面のあたしと賢木の横顔がうつっていた。