リナの考え
世の中にはラブストーリーというものが、溢れるほどにありふれてる。
そこに描かれる、恋する女性たち。
相手の姿を見るだけで、その人を想うだけで、ときめいたり。
ちょっとした触れ合いに、胸を高鳴らせたり。
喧嘩したり、すれ違ったり、でもそこからお互いを深く知って想いを深めたり。
ハプニングに力を合わせて立ち向かい、絆を深めたり。
求め合ったり、愛し合ったり。
そうして多くの物語は、幸せそうな二人を描いて幕を閉じる。
そして。
たくさんの人が、それを、憧れたり、喜んだり、当たり前に楽しそうに話題にしていて。
だからだろう、私は、恋愛とはそういう感情を伴うものであるのだ、と思っていた。
でも。
そこに描かれているような感情は、どれもが自分には理解できない、自分とは無縁のもの。
だから。
私は、恋とは無縁なのだと、そう、思っていた。
興味が無い、というわけではないと思う。
ただ、自分には恋というものはできないのかも知れない、と思っても、それほど悲観していなかったのも事実だった。
もしかしたら。
私が、恋を楽しむ子たちを羨んだりすることが無かったのは、偏に、ココと一緒にいる時間が楽しいからなのかも知れない。
いや、楽しい、と言うと、ちょっと違う。
勿論、楽しい時間もある。けれど、退屈なはずの時間でも、安心する、って言うと大げさな気もするけれど、そんな、不思議と落ち着く時間だったりする。
それは私にとって、ドキドキするようなことよりも、ずっと大切にしたいことだと思える。
――それはきっと。ココは私にとって、“特別”だから、なのだろう。
初めて会った時の印象は、馴れ馴れしい子、という、どちらかというと良くない印象だったのに。
少しずつ、彼女のいる光景に、慣れていって。
いつからか、彼女といる光景が、当たり前になっていて。
その“当たり前”が“特別”だってことに、今更になって気付くくらい、それはもう、日常だった。
ところで。
世の中の人にとって、『恋人』というものは、“特別”な人である。
勿論、『親友』だって十分に“特別”な存在なんだろうけれど。
じゃあ、その違い、というか、境界、って、何だろう。
――キスをしたい?
それは、恋人っぽい。
――手を繋ぎたい?
それもまあ、恋人っぽいか。友人と手を繋ぐことが変だとは思わないけれど。
――一緒にいたい。
いたい、っていう欲求にすると、恋人っぽくはある。
でも、一緒にいる時間が大切に思える、とすると、どうだろう?
これは、『恋人』と限定するのは難しい。『親友』に限らず『家族』とかでも成り立ちそうだ。
境界というよりは緩衝地帯。積集合的な、共通部分。
つまり、それは『友情』であると同時に、『恋』という集合の一部分である。
ならば、私のココへの気持ちが絶対に恋では無いと言い切ることは出来ないのではないか?
コペルニクス的転回。
恋というものが、必ずしも私が思っていたような感情を伴うものでは、ないならば。
私は恋とは無縁なのだと、そう、思い込んでいたのではないか。
そういう、世の中の『常識』に縛られていた。飼い慣らされていた、と言ってもいい。
だから――もしかしたら私は、ココに恋しているのかもしれない。
そんな風に考えても、やっぱり、ドキドキしたり、顔が熱くなったりはしない。
けれど、胸の奥でじんわりと、何かそれは、なかなか悪くない、そんな気持ちだった。