新月9
しばらくそれを見ていた少女は、突然独り言のように話し始めた。
「私、昔夢を見たの。あなたが乗っているあの馬。あの足先が四本とも白いでしょ。あれ四足白って言うんだけど、夢の中であれと同じ馬を見たの」
「馬? 足の白い馬なんか他にいくらでもいるさ」
「いいえ、あの馬よ。間違いないわ。身体は真っ黒で四本の足先の毛だけが見事に真っ白なの。その白い足の模様がきっちり四本とも同じ。あれだけ見事な四足白は、そう簡単に見つからないわ」
「ふぅん、それで」
ナイジェルは馬の模様などに興味は無かったが、何かに取りつかれたように話し続ける娘に合わせ、相槌を打った。
「その夢っていうのが、満月の夜、私が馬に乗って森の中を駈けていくの。目の前にもう一人馬に乗った男がいて、その男の乗った馬がこれと同じ四足白なの」
「うん、それで? 」
「それだけ。その時初めて、私は本当の自由を感じているの。私の前を走っている四足白の馬に乗った男の顔は覚えていない。大きくがっしりした人だったような気がするだけ。たった一度だけ見た夢だけれど、今でもはっきりあの感覚は覚えているわ。だから」
「だから? 」
「だからここで待っていたの。あなたがこの店に、あの馬に乗って入ってきた時から、あなたのことが気になっていたの。ここでお会いできて、あの馬の持ち主は私が思っている以上の人だった。こんなステキな人は今まで会ったことがなかった。あなたはきっと私を自由にしてくれる人だわ」
ナイジェルは濡れたままのシャツと上着をそのまま羽織った。それから馬の背に鞍を付け、庭の杭に繋いだ馬の手綱をほどいた。
「ほら、君の好きな馬だ。私は力になれないが、君の夢が本物になることを祈っているよ。じゃあ」
手綱とたてがみを掴んで馬に乗ろうとした時、娘が声をかけた。
「待って、連隊長さん」
「ナイジェルだ。連隊長さんでなくナイジェル・カワードという名前だ。まだ何か」
「行かないで」
声にならないような小さなつぶやきだった。ナイジェルは手綱を握っていた手を止めた。それはヤマナラシの陰に半分隠れた唇だけが、動いてそう言っているように見えたのかもしれない。しかし、その次の声ははっきり聞こえた。
「行かないで。私はここに売られた時、母さんは涙を流していた。でも、あなたはこれから死ぬかもしれないのに、誰もそう言ってくれなかったの? 私はこの酒場に入ってきたあなたの姿を一目見た時から、ずっと好きだった。こんな完璧な人が世の中にいるのかと、息が止まるほど驚いたの。私はお金も無いし何の身分も無いけれど、あなたみたいな人がどこかで生きているというだけで幸せでいられる。あなたが死んだら、私は生きていかれない。それだけなの。なのに、そんなあなたがどうして誰からも言われなかったの。行かないでって。ナイジェル。何も無くていいの。みすみす死んでいくような戦争に行かないで。行かないで」
ナイジェルは大きく息を吐いて、手綱を握り締めた。
「君の名前は? 」
「アンジェラ」
「アンジェラか、いい名前だ。ありがとう。ここに来て良かった。私は男爵家に生まれた。あの家に生まれたからには、逃げることは許されない。どこに行っても君のことは忘れない。元気でいてくれ。これで迷うことなく戦場に行かれる」
ナイジェルは馬に乗り、その腹を蹴った。