新月3
それからどうやって宮殿を去ったか覚えていない。気が付くと、町を出て森への入り口近くにあるこの古びた酒場にいた。古い木材を無理矢理集めて建てたようなこの建物は、窓だけではなくその板の隙間から、店の中の灯りが漏れている。客が多く入って賑わっているようだ。店から誰も出てこないので、ナイジェルは店の裏にまわり、そこにあった馬留めの杭に自分が乗ってきた馬を繋ぐと、馬のムチだけを持って店に入った。扉を開けると男の汗の臭いがムッとした。狭い店の中、男達が肩が触れそうに詰めて座っている。ツギの当たった服を着た客達は大きな声でしゃべり、店全体が雑然としていた。一つだけ空いていた木の椅子に座ると、ナイジェルはようやくホッとした。
綺麗なもの、着飾った美しいものはたくさんだ。それらはただ表面的に取り繕っているにすぎない。なぜあんな奴らに頭を下げなければならないのだ。彼らはただ身分の高い家に生まれただけだ。中身は何も無い。それなのにあんなヤツらのために私は命を捨てにいかなければならない。
ナイジェルは続けざまにワインを二杯あおり、三杯目のグラスを握り締めたまま、見るともなく店内の慌ただしい様子を眺めていた。すると側にいた爪の先が土で真っ黒になった百姓らしき男が声をかけてきた。
「そこの若いダンナ。立派な軍服を着て、ダンナも明日は出陣ですか? 見たところ浮かない様子で。顔に死相が見えますぜ。使っちまえよ、酒飲んで。どうせ生きては帰れないんだ。見ろよ。あっちの道を」
男はアゴで森の方角を指し示した。目をこらすと、開け放した窓から夕暮れの道を何台もの馬車が森に向かって走っていくのが見えた。日が完全に落ちる前に森を抜けようと、かなり慌てているのだろう。御者は何度もムチを振り上げ、その度に馬は悲鳴に近いいななきを上げて必死に馬車を曳いていた。
「貴族達の行列だ。フン、いい気なもんだぜ。俺たちは負け戦に駆りだされて命も財産も危ない。その裏で貴族のヤツらはどうしているか知ってるか? こっそり荷物をまとめて一人、二人とこの国から逃げている。日が暮れる頃になると、いつもこの森に続く道が騒がしくなるんだ。貴族様を乗せた馬車がゾロゾロ通ってさ。
ヤツらにはルートがあるんだ。森を抜けたところには国境線を守る兵士たちがいる。国民が逃亡しないようにするためにだ。ところが貴族様は、その兵士に裏からしこたま金を握らせる。すると兵士は黙って後ろを向いて道を通してくれる。
俺だってやってみたさ。女房も子供もいるんだ。ゲル国が攻めてくりゃ皆殺しか、良くて奴隷だ。死にたかねぇ。家も畑も売って金を作って森に入り、家族で国境線に行ったんだ。そして国境線の兵士に金を渡した。受け取ったさ、兵士はその俺の全財産を。ニコニコしてさ。そして俺達家族が国境を越そうとしたその途端、いきなり後ろから俺を縛りあげてここに強制送還さ。明日から軍に入れられて、棒っきれみたいな槍だけ持たされて戦場に行かされるんだ。騎兵隊が先に出発して全滅した頃に、今度は貧乏人を掻き集めた兵隊で時間を稼ごうってんだよ。結局俺達貧乏人は、どこにも逃げらんねえ。大人しくお上に従って負け戦に行くしかねえんだ。一緒に逃げた女房と子供もどうなったか知らねえ。どっちみち生きていたところで、今度はゲル国が来りゃ、ゲル国の奴隷になるんだろう。あの馬車馬と同じだよ、俺たちは。さんざんムチで叩かれて、使いモンにならなくなりゃ道端に捨てられる」
言われて、ナイジェルは士官学校で同期だった国境警備隊の隊長の顔を思い浮かべた。彼なら何をやってもおかしくない。昔からいつも裏から手をまわして、何か自分のためになりそうなことだけを考えている、あまり好感の持てない男だった。士官学校を卒業した後は、親が伯爵家出身という高い身分のために前線には回されずに、ゲル国とは離れた側の森の中の国境警備隊という安全な場所に配属されていた。なるほど、安全なところでそういうことをしていたのか。
「犠牲が必要なのだ」
国防大臣の声が再び頭をよぎった。誰のための犠牲だ。あのつまらぬ国王と貴族どものためか? あの貴族達はああやって表面上はカードや舞踏会の話をしているが、その裏で密かに一人、また一人と国を捨て、自分の財産だけを持って逃げている。馬鹿らしい。何のために私は命を捨てなければならないのか。ナイジェルは手にしていた酒を一気に飲み干し、再び酒を注文した。