第八話
八
「そう……」
二人の話を少しも取り乱すこともなく冷静に受け止めた鳥井は、その一言だけを発すると、俯くように、そして何かを考えるようにする。話の内容のわりには、そのように冷静でいられたのは、あるいは自身が見た『人』の群れの方が、それだけインパクトがあったからかもしれない。
「やっぱり……、ヤバイわね、これって……」
ふいに天上を見上げた鳥井は、その後、周囲をぐるりと見渡し、両腕で体を抱くような仕草をした。それは震える体を押さえつけているようにも見えたが、それはやはり、多少は彼らの話が堪えたせいなのかもしれない。
「で、先生、これからどないしましょう?」
霊感があるから、この場合『先生』。田神は緊迫したこの状況を少しでも和やかにしようと冗談を言ってみたものの、この状況下では悪い冗談だと黙殺された。それはただ単に相手側にその冗談に応えるだけの余裕がなかったから、というのもある。
「とにかく、一度外に出てみましょう」
出入り口を見つめながらそう提言する鳥井に対して、宮口が不安そうに訊ねた。
「でも、そこって……、人が……」
田神もそちらを見つめながらゴクリと喉を鳴らした。
「ううん、大丈夫。もう今は何も感じんし。けど、さっきみたいに突然現れたら知らんけどね……」
鳥井は一瞬ニヤリと笑ったようだが、それがただの自虐だとしても、それこそ悪い冗談だ。田神はさらに喉を鳴らした。
「でも」と、それから鳥井はさらに言葉を続けると、今度は真剣な眼差しで後ろを振り返り、そして廊下側を指差しながら呟くように言った。
「今は何か、こっちの方が嫌な感じがするねん……」
彼らの中で一番廊下側に近かったのは宮口である。宮口は鳥井のその発言に驚いたように後ろを振り返った。その視線の先には西側へと向かって真っ直ぐに延びる廊下。当然、ここ昇降口と同様に蛍光灯など点いてはいない、窓からの光もない。さながらそれは、永遠の闇へと延びる無限回廊のようであり、突き当たりにあるはずの家庭科室を確認することなどは不可能な状態にあった。そればかりかその廊下全体を覆っているその闇が、何やらこちらに向かって渦を巻いてやって来ているような、そんな錯覚すら感じた。
「確かに、嫌な感じやな……」
宮口は小声でそう言うと、廊下側から向き直り、鳥井を見据え、首を縦に一つ振って同意の意を表した。もちろんそれは、外へ出てみようということに対しての同意である。
「うん……そうしましょ。で、田神もそれでいい?」
宮口の同意を取り付けた鳥井は、さらに田神へと確認を取りにかかるが、その田神は返事をするよりも先に、ドア方面へと向かって歩き始めていた。それを見て慌てたように宮口が、そして鳥井が田神の後に続く。まるで出遅れれば、一人闇の中に取り残されてしまうのではないか、という恐怖心でも働いたかのように、ここからドアまでは僅か数メートルほどの距離であるにもかかわらず、三人はまるで競歩レースのようにしてお互い我先にと歩を進めた。
「確かに、早く出たほうがええよ……、これは……」
一足先にドアへと到着した田神は、誰に言うでもなくそう呟くと、そのドアへと手を掛けた。掛けた瞬間、手が軽く滑る様な感触があった。(濡れてる?)田神は思わずびくりとしてドアから手を放すと、ドアを、続いて自分の手を見た。
「何? どうかしたんか?」
宮口が右肩越しに不安そうに問いかける。
「え? ああ、いや、何でもない……、何でもないんや」
田神はそのようにぶっきらぼうに答えながらも、後ろにいる二人には分らぬよう、手にかいた大量の汗を、そっとズボンで拭い取った。その汗こそが先ほど濡れていると感じたものの正体である。
その汗が象徴するように、田神も感じていたのだ。西側の廊下の奥より闇が渦を巻きながらこちら側にやって来ている……。先ほど宮口が感じたその錯覚は、何も彼一人だけのものではなかったのである。田神が鳥井への返答もそこそこに、ドアへと真っ先に向かったのも、それが理由だったのだ。冗談なども飛ばし、外見的には平静を装っているフリをしていた田神だが、内実としてはそうでもなかった、ということである。
古くからの付き合いからか、宮口はそういう田神の事情を何となく察したのだが、何も知らない鳥井は無責任にも、「何もないのなら、さあ、早く」というようにして、田神の左肩越しに、再度ドアを開けにかかるよう無言の圧力をかけていた。一度、気持ちを落ち着かせようと、一旦間を置きたかった田神のささやかな願望は、鳥井のその無情なプレッシャーに勝つこと叶わずに打ち砕かれ、仕方なく田神は、間を置くことなく、再びドアへと手を掛けていた。