第一話
暗い暗い廊下道 その先 果てに何がある
行ってみようか戻ってみよか 前も後ろも闇の中
行けよ行けよと声がする 釣られて足が動き出す
行くな行くなと鳴るチャイム 来いよ来いよと闇が呼ぶ
行けよ行けよと声がする 来いよ来いよと闇が呼ぶ――
1
キ~ン コ~ン カ~ン コ~ン
「バイバ~イ」
「また明日ね~」
「ねぇねぇ、一緒に帰ろう~」
「めっちゃ、よ~寝たわ~」
「今日の現国のノート貸してんか~」
「これからゲーセン行かへん?」
「今日の練習、雨降った後やし、中でするんやて」
「やっと終わったわ~」
「帰りに何か食ってこか~」
「片葉先生の授業よ~わからんわ」
「すまん、今日ちょっと用事あんねん」
「あれ、明日でええんやな」
「帰ったらメール送るわ、それ見て」
ザワ、ザワ、ザワ、ザワ、ザワ……。
先ほどまでの静けさはどこへやら、俄かに慌ただしくなる放課後の学校。各々が動き、喋り、眠っていた学校を蘇らせる。そして蘇った学校は次々と生徒らを排出していき、ほどなく教室内は掃除当番だけとなる。ホウキで教室内をくまなく掃き、黒板を綺麗にし、窓を拭く彼らは、まるで学校の腸内菌であるかのごとく黙々と動き清掃をこなしていく。それはまた明日学校が、生徒らを元気よく食べる為の、下準備であるかのように――。
「どうや、もう掃除終わったか?」
そう言って、ここ県立平坂高校東館校舎3階、3年2組の教室を覗き込むように、そして品定めするように、ゆっくりと見回す一人の男がいる。それはこのクラスの担任、中水浩二だった。歳は二十八歳。しかし背の高さは160ちょっと。今現在、男子高校生の平均身長が170を越えるというから、それに比べると少し低い。だが、その身長が幸いしてか、生徒たちからは威圧感が無いから親しみやすいと、校内でもそこそこの人気者である。その中水が再び教室にいた四人に声をかけた。
「どうや、田神、宮口、鳥井、それと……、神呪」
「へ~い」
「あらかた終わりやした」
教室の後方から声が上がる。それは掃き掃除を担当していた男子生徒、田神、宮口。そして返事こそ無いが、もう終わりにしてもいいでしょう? と言うように、中水の方を振り返ったのは黒板担当の女子生徒、鳥井。そして残り一人は、声も出さなければ、振り向きもせず、窓の所で一人佇む女子生徒、神呪。『神呪』それは苗字である。『かんの』と読む。その神呪は、窓の拭き掃除担当のはずであったが、手には雑巾も持たず、周囲にバケツの姿もなく、ただ窓の所で佇み、そこでじっと外の様子を眺めるのみである。
「お~い、神呪?」
中水は再び、彼女にだけ声をかけた。
「……」
しかし返事は無く、ただ窓の外をじっと眺め続けるのみである。その様子を不審に思った中水は、神呪の元へと歩み寄って行く。
「おい、神呪、窓の方は……」
中水はそう言いかけて、続きの言葉を思わず飲み込み、代わりに用意していたものとは別の言葉を持ってくる。
「……終わってたんか……」
一点の曇りもない窓からは、夕陽がさんさんと降り注いでいた。今まで外をじっと見つめていた神呪は、音も無く静かに振り向き、中水を見た。まるで日本人形のようなその黒髪が、ふいに吹き込んできた風に、さあっとなびいた。それは夕陽を乱反射し、キラキラと煌く。そしてその髪の間からは、これもまた日本人形のような静かな笑みをたたえた神呪が、中水を静かに見つめてこう言った。
「寒く、なってきましたね……」
それは気温の話である。そう言うと神呪は、細く白くそして長いその指で、窓をカラカラと閉め始めた。その姿は夕陽を浴びて輝き、妖しく幻想的に見えた。その神呪の容姿に思わず見とれてしまっていた中水は、窓が閉まるその音で、ようやく我に返ったようだ。
「そっ、そうやな、もう十一月も終わりやしなぁ……」
口ごもるようにそう相槌を打つと、中水も神呪に倣うようにして窓を閉めようとする。しかし、窓の取っ手に掛けた指はぬるりと滑り、彷徨うように空を切る。よく見れば手には大量の汗をかいていた。
(どうも、まだ馴染めんなぁ……)
中水はそう思いながらズボンで手の汗を拭った。
神呪真遥は転校生である。しかも今月の初めに転校してきたばかり。3年生のこの時期に突然現れた転校生に、生徒たちばかりでなく、担任である中水の心にも未だ戸惑いがあった。それは進路などの指導面に関してもさることながら、それ以上に生活面での戸惑いが大きかった。原因はその妖艶な風貌、雰囲気に因るところが大きい、というよりも、それが全てである。しかし、その戸惑いは中水に限ったことではない。このクラスの者ならば、男子、女子を問わず、誰しもが神呪のその雰囲気に、未だ馴染めずにいるようであった。そのことがさらに中水を戸惑わせてもいた。早くこのクラスに馴染めるように、まずは自分から率先して神呪に接しようとするのだが、いつも結果は先ほどのような他愛無いやりとりだけで終わり、そそくさとその場を去ってしまう。そして毎度手には大量の汗をかいてしまうのである。思わず避けてしまうような、そんな近寄り難いという感じが、神呪にはあったのだ。
汗を拭い終わった中水は無言で窓を閉め終えると、今日こそはもう少し会話をと、再び隣を振り向いたが、すでに神呪の姿はそこにはなく、もう別の窓へと移動してしまっていた。行き場を失った中水の視線は自然と窓の外へと向けられる。目に映る晩秋の太陽はまだ4時過ぎだというのに、つるべ落としよろしくどんどんと沈みゆく。もう夕陽の一部は山影へと隠れ始めていた。この学校が山際に建っているということも、より一層夕闇の訪れを早めているようだ。しばらくはその夕陽を目を細めるようにして眺めていた中水は、神呪のことは一先ずそれで終わりと考えたのか、神呪の行った方向とは逆の方向である教室の後方、そこで掃き掃除をしている田神と宮口の方へと近付いて行った。
ちょうど二人は掃き終わったゴミを、チリトリへと集めているところであった。一人がチリトリを持ってしゃがみ込み、もう一人がホウキでそれに押し込んでいる。ホウキを扱っているのが田神寛之、チリトリが宮口孝俊。田神はホウキを慣れた手付きで扱い、ゴミをチリトリへと掃き入れてゆく。宮口はチリトリを巧みに後退させながら、ゴミを上手く誘導し、中へと導き入れてゆく。
「絶妙のコンビネーションやな……」
その様子を見ていた中水はぽつりとそう呟き、ふっと思い出したようにする。そう言えば、田神と宮口は幼なじみだったな、と。
確かに、田神、宮口、彼ら二人は幼なじみであった。幼稚園、小学校、中学校、そしてこの平坂高校というように、学校生活、そして学校生活以外においても、全ていつも一緒であった。当然、双子のように仲も良い。そのことを証明するような出来事が、普段意識していなくとも、こういう何気ない日常の動作の中に、ぽっと姿を現すことがあるのだ。
まもなく掃き掃除が全て終り、田神、宮口らはホウキとチリトリとを仕舞うべく、掃除用具ロッカーの扉を引き開けた。そのロッカー、かなり古い。木製なのである。従ってこの平坂高校も古い。さすがに木造校舎、とまではいかないが、築三十年以上は軽く超えていた。
ニィイイイ~……。
嫌な軋み音を立てて扉は閉まった。最近特に音が酷い。閉めた田神はその音に思わず苦笑いをした。
今まで黒板消しクリーナーをかけていた鳥井も、どうやらちょうど終わったらしく、途端に教室内には静けさが訪れた。大学の推薦入試が近いのである。そのせいか3年生の教室が居並ぶこの辺り一帯の廊下には、もう人気がなかった。そのことが、さらに教室内に静けさ呼んだ。しかし、その静けさを打ち破る声が突如として沸き起こった。
「あっ、そうや! 日誌や! 田神ぃ、日誌!」
その静けさに対し相当場違いな頓狂な声を上げたのは鳥井彩音。学校の校則があるが為に染髪こそないが、そうでなければ今頃は茶髪にしていてもおかしくはなかったであろう肩までの髪と、そして短めの丈のスカートを共にヒラヒラとさせながら田神の元へと駆け寄って来る。
「ああ、日誌な。出来とるよ……、って!」
そう言って田神は机の中から日誌を取り出そうとしたが、「あっ!」と言わんばかりの顔と同時に思わずその手を止め、中水の方を振り返った。その様子に鳥井も気付いたらしく、同様に「しまった!」という顔をする。
「ん? 今日の日誌の担当って鳥井やなかったか?」
中水が渋面を作りながら、田神と、そして鳥井を交互に見ている。
「えっ? あれ、そうでしたっけ? あ~でも、そうそう、私って字ぃ汚いし……」
そう言ってケラケラと笑ってごまかしにかかる鳥井。
「そっ、そうそう! だから俺が代わりに……」
それに続く田神。だが、それに対して間髪入れずに宮口が突っ込む。
「なんでやねん! パソコンに字ぃ汚いも何もあるかいな!」
どっと笑う三名。鳥井、田神、そして宮口が三人がかりでごまかそうとしたものの、中水には通じず、やがて笑いも先細りとなっていった。
「……すいませんでした。でも私、パソコンが苦手で。ジュース一本で取引を……」
取引の話は余計だとは思いつつも、田神も鳥井に続いて頭を下げた。
「なんや、パソコンが苦手って、今はそれぐらい出来んと社会に出て通用せんで」
最近は学校の方針として、少しでもパソコンに慣れ親しんでもらおうと、日誌をパソコンで、しかもレイアウトや書式は各自自由にさせ、提出させるということを行っていた。だが、当然自筆でない分、時間の無い者、面倒な者、苦手な者などは、得意なものにまかせっきりという、こういった不正が横行しているのも事実であった。
「鳥井、お前ももっとちゃんとせなあかんで。神呪のやつなんかは昨日なぁ……」
そう言って中水は、これは神呪へと話題を振るチャンスとばかりに、昨日の神呪の日誌が素晴らしかったことを褒めようと、その当人の方へと振り向いた、しかし――。
「……あれ?」
中水は戸惑う。何故ならもうそこに神呪の姿は無かったからだ。確かついさっきまで、そこの窓際に立っていたように思ったのだが、一体いつの間にいなくなってしまったのだろうか。しかしそれは中水だけでなく、他の三人も同様に思ったらしく、その四名の視線が、神呪のいた辺りを当て所も無くウロウロと彷徨った。これをキツネにつままれたようだとでもいうのか。それは神呪だから、ということもあったのだろう。あの妖しげな雰囲気のこともあいまって、まるでその出来事は人知を超えた何か神がかり的なもの、神隠しのようなものさえ連想させ、その事に何やら得体の知れない寒気のようなものを、その場に居合わせた全員が感じずにはいられなかった。
その事にすっかり水をさされてしまったのだろう。その後、中水は日誌について特に取り立てて鳥井を、そして田神を怒ることもせず、その場はそこでお開きとなった。
「さっ、帰ろか……」
田神はそう言いながら鞄を背負った。
「そやな、帰ろ……」
宮口もそれに続いた。
鳥井は何かのフィギュアキーホルダーを沢山付けた鞄をじゃらじゃらいわせながら、田神、宮口よりも一足先に教室を出て行った。何故か急いでいるように見受けられたが、友達と待ち合わせでもあるのかもしれない。
中水はそんな鳥井と、そして田神、宮口が教室を出たのを確認してから、もう一度教室内を振り返った。だがもちろんそこに神呪の姿は無かった。ただ、もうすっかり山影へと隠れてしまった夕陽の残光が、赤く染まった雲と共に窓を通して見えるのみである。中水は改めて首をかしげるようにしながらも、田神、宮口らに続き、教室を後にした。