インビジブル・ウィーズル
巣鴨慈寿荘外道狩りシリーズ第三弾。
あらすじに登場人物一覧があります。
目が覚めると、大量の汗をかいていた。
まるで、水を被ったかのようで、のっそりと身を起こした彦蔵は、倦怠感を振り払うように、一つ深い溜息をついた。
暮れとはいえ夏。寝汗をかいても不思議ではないが、夜から払暁にかけて草雲雀が鳴き、日に日に秋の気配が濃くなっている季節でもある。
ただ、寝汗の原因が暑さではないという事は、彦蔵にはわかっていた。夢を見たのだ。それはかつての記憶。二十年前。十五歳だった彦蔵が弥太郎と名乗り、故郷の夜須で庭師の見習いをしていた頃のものだ。
(なんという日に、なんという夢を見たものか……)
今日は妻だった喜勢の四周忌なのだ。正確に言えば、喜勢と彼女を死に至らしめた子の命日。今日はその四周忌となる。ただでさえ嫌な日に嫌な夢を見てしまった。
彦蔵は立ち上がると、諸肌になり全身の汗を手拭いで丹念に拭き上げた。
それから、戸を開けると、まだ薄暗い夜明け前の空があった。僅かに残った夜気を含んだ肌寒い風が、吹き込んでくる。
(やはり、暑さのせいではないな)
昨夜の夢は、思い出したくない、それでいて忘れられない記憶だった。
彦蔵は、まだ五つの歳が離れた妹の手を引いて、夜須城下郊外にある曩祖八幡宮の縁日に出掛けていた。
妹は朝から大変なはしゃぎようであった。それもそのはずで、兄妹二人して出掛けるのは久し振りだったのだ。
兄と妹、両親が流行り病で死んでから、貧しくも二人で生きてきた。唯一無二の家族。しかし、昼は庭師の見習いとなり、夜は夜で内職に励んでいる彦蔵にとって、妹に構う時間は殆ど作れなかったのだ。
故に妹は喜び、それを彦蔵は苦笑して見ていたものだが、それが仇となった。
「もう兄ちゃんったら、歩くの遅いよ。早く、早く」
と、繋いだ手を振り払って走り出した妹は、酒屋から出て来た男にぶつかってしまったのだ。
男は武士だった。それも、上士の者に見えた。立派な身なりで、数名の供を従えていた。
彦蔵はすぐさま謝ろうと駆け出した時、男の腰から眩い光が伸び、妹の身体を両断した。
まず、上半身がくるりとこちらに向いて傾き、下半身もその一呼吸後に崩れ落ちた。
何が起こったのか。彦蔵には状況が飲み込めなかった。ただ、妹が二つ断たれ、斃れた。その光景だけが、視界にあった。
一瞬の出来事に呆然とする彦蔵の思考を引き戻したのは、群衆の悲鳴だった。
それで我に返った彦蔵は、妹に駆け寄ると、二つの身体を繋ぎ止めようとした。そうすれば、妹が息を吹き返すのかと思ったのだ。
男は、酒気を纏わせていた。そして、座った目で彦蔵を見据え斬ろうとした。しかし、それは駆け寄った町人達や男に付き従う供によって止められたが、今思えばそこで死んでいた方が、世間様にとって良かったのかもしれない。
あの瞬間、妹の身体から奔騰した鮮血が脳裏に浮かぶと、彦蔵は記憶を打ち消すように首を振り、井戸へ向かった。
本所深川の今川町にある、彦蔵長屋の朝は遅い。まだ他の者は夢の中にいるようである。
彦蔵は表店の料理茶屋〔きせ〕の主であり、その裏店である彦蔵長屋の家主でもある。元は表店の一室で暮していたが、四年前に喜勢が死ぬと裏店に引っ越した。喜勢がいたので〔きせ〕にいたが、元々はこうした日陰が自分には似合う。
井戸で顔を洗うと、すぐに身支度を始めた。
袖を通すのは、裏長屋住まいの人間には似つかわしくない、上等な着物である。故郷の夜須にいた頃には触れる事さえ出来なかった代物だが、流行りの店の主なだけに、見栄えも気を遣わねばならない。
それから彦蔵は、押し入れから白鞘の匕首を取り出し、上着の裾に隠すように腰へぶち込んだ。
匕首は護身用である。そこそこの身代となったからには、これぐらいの準備は必要であるし、事実これをちらつかせて避けれた危険もあった。そこまで用心深いくせに、裏長屋に棲むのだから、我ながらその矛盾がおかしくもある。
匕首を初めて使ったのは、妹が殺されて翌年。相手は、磯貝忠五郎。妹を無礼打ちにした、夜須藩士である。
妹を殺され、天涯孤独となった彦蔵に残されたものは、復讐しかなかった。
一年、磯貝という男を追った。上級藩士である大組に属し、当時夜須藩を牛耳っていた首席家老・犬山梅岳の側近の一人であった磯貝が、どこに住み、どう生活し、どこで狙えるのか。執念深く機会を待ち、そしてある日の夜、彦蔵は庭師で培った身軽さで屋敷に忍び込むと、寝ている磯貝の首を掻き切って殺した。
それから夜須を抜けた彦蔵は、盗みを働きながら江戸へと下り、そこでも盗賊稼業を続けた。
持ち前の身軽さと忍び込む妙技から、鼬の神様という意味の〔鼬目天〕と呼ばれ、裏で名を馳せるようになった。盗みは独り働きで、押し込み先は武家ばかり。武家を狙うのは、妹を武士に殺された恨みがあるからだ。その憎悪は激しく、磯貝を超え身分そのものに及んでいた。故に、町奉行所や火盗改からは、〔侍嫌いの鼬目天〕とも言われていた。
だが、その盗賊稼業とも六年前に足を洗った。きっかけは、喜勢との出会いだった。
喜勢は料理人の娘で、神田の料亭に奉公に出ていた。そこで彦蔵は喜勢と出会い、物静かな性格であるが、心細やかな気配りが出来る人柄に惚れた。彦蔵は没落した大店の妾腹の子という肩書で近寄り、実際その経歴も買った。江戸の裏世界には、そうした人生の売買もあるのだ。
盗賊から足を洗って半年後、喜勢と夫婦になった。盗賊稼業でため込んだ銭で料理人を雇い、〔きせ〕を始めたのもその頃だった。暫く二人の穏やかな日々が続いたが、それも長くは続かなかった。四年前の今日。喜勢の中に宿った子が、何よりも尊い喜勢の命を奪ったのだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
店に出ると、板場で浜五郎が一人、仕込みに追われていた。
浜五郎は喜勢の弟で、彦蔵の義弟にあたる。十年ほど浅草の料亭で修行し、喜勢の死をきっかけに引っ張ってきたのだ。浜五郎は生真面目な一本気で、人当たりもいい。故に彦蔵はこの義弟を可愛がり、いずれ〔きせ〕を継がせようと、少しずつ店を任せている。その事で、店の者が依怙贔屓と不満を漏らしているという事は知っている。しかし彦蔵は構わなかった。これも主になる為に乗り越えるべき壁であり、浜五郎はいずれそうした雑音を実力で黙らせるであろうと彦蔵は信じている。
「旦那様、おはようございます」
浜五郎が板場から顔を出した。出汁のいい香りがする。
「おう」
彦蔵は土間席の一つに座った。〔きせ〕には土間席と、一階と二階を合わせた六つの座敷を有していた。座敷は一間貸し切りで、芸者を呼ぶ事も出来る。座敷の高級さと、土間席の気軽さ、その両方を兼ね備えた店が、江戸っ子に受けているのだという。
彦蔵はそうした評判を、どこか他人事のように聞いていた。この店は、喜勢の為に作ったものなのだ。いつか女将をしてみたい。その夢を叶えてあげたのである。その喜勢がいない今、〔きせ〕を更に大きくしようという情熱は嘘のように消えていた。
「浜、二人の時は兄貴で構わんよ」
そう言うと、浜五郎は「へへ」と笑みを浮かべた。
今、〔きせ〕に住んでいるのは、浜五郎とその妻・美代の二人だけだった。美代はお腹が大きく、裏で休んでいる。奉公人も、まだ店に来ていない。
「兄貴、何か食べますか?」
「ああ。飯に沢庵と茶でいい」
「冷や飯しかないのですが」
「構わんよ。飯に熱い茶をかけて持って来てくれ」
「へい」
浜五郎は奥へ引っ込み、暫くして二人分の茶漬けを運んできた。それを二人で啜った。古漬けの沢庵の酸味が、茶漬けにはよく合う。
この食べ方を、喜勢はよく咎めたものだ。
「ちゃんと、菜を食べてくださいよ」
あの時の声は、今でも鮮明に思い出す事が出来る。
「今日は店を任せていいか?」
「勿論です、兄貴。今日は姉さんの命日ですから」
「すまんね」
「でも、兄貴。そろそろいいんじゃないんですか?」
「そろそろって何だよ」
「やだなぁ。後添いですよ。いつも言っているじゃないですか」
「お前なぁ、あいつの命日にそれを言うか」
「姉さんに義理立てする事はないですよ」
それは彦蔵の再婚話である。浜五郎は、どうも彦蔵に後添いを取って欲しいようだ。彦蔵に決まった女はいるが、生憎その女と所帯を持つ気は無い。
「俺はな、お前達夫婦に店を引き継がせると決めたのだ。俺に子が出来れみろ。色々面倒だぞ」
「何を言うんですか。その時は兄貴のお子が旦那様になるだけですよ。俺は料理人でいればそれで」
「そう簡単に行くかよ。お前の女房は、お前がこの店を引き継げるから夫婦になったんだろ?」
「兄貴、お美代はそんな女じゃないですって」
彦蔵は肩を竦めてみせ、席を立った。
「戻りはわからん。いいな」
「へい」
◆◇◆◇◆◇◆◇
墓参の帰りだった。時分は既に夕刻である。
中川町の木戸を潜った彦蔵は、盗賊稼業で身に付けた嗅覚で、その異変に気付いた。
それは空気でわかる。人が集まり、動揺し、ひそひそと囁き合っている。不穏な気配が空気で伝わるのだ。
得体の知れない胸騒ぎに、彦蔵は引き返すべきか迷った。異常や危険を避ける。足を洗ったと言えど、盗賊の習性は一朝一夕では無くなるものではない。
中川町には、女に会いにきたのだ。亡き妻の命日に会うとは不謹慎だと思うが、もう喜勢が戻らない事実を突き付けられると、女体に飢えている自分がいて、足が自然と向いてしまう。
女は〔あけり〕という名前だった。今年で十九になる。この女とは、一年前から男女の仲になっていた。
きっかけは浪人に絡まれたあけりを助けた事だった。それから何度か会い、身体を許すまでに大した時間は掛からなかった。
あけりは、芸者の娘だった。父無し子として生まれ、十六の時に母を亡くした。その頃から、佐賀町の小料理屋で働いていて、それは今も続いている。一度は客だった男と良い仲になったそうだが、月のものが来ないと告げると、次の日には姿を消したらしい。そして、その子は小料理屋の主人のはからいで寺に出した。
(何かあるな)
裏店に入ると、胸騒ぎが一層強くなった。一瞬不安が胸を掠めたが、
(何を恐れる事がある)
と、彦蔵は踵を返そうする自分を止めた。鼬目天は、この江戸に六年も現れてはいない。町奉行所も鼬目天は死んだ見ている。それに入念な後始末をしたので、自分と鼬目天を繋ぐものは何も残っていないはずである。
彦蔵は。注意深く足を進めた。
人だかりは、あけりの家からだった。彦蔵はその群衆に近寄り、後ろへまわって屋内を覗いた。
家の戸は開け放たれ、その奥には数名の男がいた。一人は町方の同心。そして、残りは岡っ引きと下っ引きである。腰に指している十手の鈍い光が目に入り、彦蔵はどきりとした。
「何があったんで?」
彦蔵は、小太りの女房に声を掛けた。
「女が一人、殺されたんですよ」
「へぇ、どこで?」
「ここでさ。後ろから刀でバッサリ。家に入る所を狙われたんだって言っているらしいね。しかし、何で殺されちまったのかねぇ。悪い娘じゃなかったんだけどさ」
「そうかい。そりゃ可哀想に……」
彦蔵は長屋の中も見ずに、その場を足早に立ち去った。
(こんな事なら、あの時の話を受けるべきだったのだ)
中川町から佐賀町を突っ切り今川町へ掛かる橋に至る辺りで、激しい後悔に襲われた。
あけりが、先月一緒に住もうと言っていたのだ。別に〔きせ〕の女将さんになるつもりはない。ただ一緒にいたいのだと。彦蔵は、その申し出を断るでもなく、ただ笑って誤魔化していた。一人が気軽だっという事もあるが、あけりを独占したくないと思ったからだ。あけりは若い。歳も離れている。あけりの歳に見合った男が出来れば、身を引こうと思っていた。だから共に暮らす事は、その機会を奪うものだと思い誤魔化したのだが、結果としてその気遣いがあけりを殺す事になった。
橋を渡り今川町に入ると、後悔よりも憤怒の念が強くなってきた。
下手人は誰なのか。何故、あけりは殺されなくてはならなかったのか。
最近、女を狙った辻斬りが流行っている。町奉行所が血眼になって捜査しているそうだが、一向に捕縛出来ないでいる。もしかすれば、あけりを殺ったのは、そいつなのだろうか。
◆◇◆◇◆◇◆◇
彦蔵が動き出したのは、あけりが死んで十日後だった。
すぐに動かなかったのは、彦蔵なりの用心でもあったし、町奉行所の探索を見守っていた事もある。しかし下手人は未だ捕縛されておらず、それで彦蔵は自ら探索に乗り出したのだ。
まず、あけりが働いていた佐賀町の小料理屋に顔を出した。
屋号は〔福寿庵〕という。二階建てで、奥の庭には離れもある。小料理屋というが、料亭というのが相応しいと、彦蔵は思っている。
福寿庵の主は宗吉という若い男で、二年前に店を継いだばかりの二代目だった。何度か顔を合わせた事もあり、かつ〔きせ〕が深川では名の通った店であるので、すぐに話は通った。
彦蔵は座敷の一つに通され、宗吉が応対に現れた。客はいるようだが、まだ昼間なので忙しくはなさそうだ。
「彦蔵さんがあけりと遠縁だったなんて初耳でしたよ」
「そうなんですよ。私の母親とあけりの母親が親戚でしてねぇ。それが縁で何気なしに助けていたのです」
そういう事にした。男女の仲という事はいずれ探索によって明かされるだろうが、わざわざそれを言いたくない。下手すれば、自分が疑われる事もある。
「なるほど。ならなおの事、今回は……」
「ええ。あんな善い娘が、何故殺されなければならないのか。私には怒りしかありませんよ」
「全くです。店でもよく働いてくれていました。明るくて、客当りもこなれていましたし」
「そうですか。何か問題を抱えていたとか?」
「いえ。勤め振りも真面目て、お客さんにも好かれていました」
「では、男関係で何か? あんな可愛い娘ですから、ちょっかいを出す男はいたでしょう。前の男の件もありますし」
「男ですか……」
「決まった男はいたんですか?」
「さぁ。誘ってくる客はいましたが、あけりはちゃんと断っていましたよ。勿論、しつこいようなら、私が止めていましたけども」
「なら逆恨みかもしれませんね」
「それは、何とも」
宗吉が表情を曇らせた。どうやら役人でもないのに、根掘り葉掘り聞く事を訝しんでいるのだろう。
(潮時かな……)
あまりにもしつこいと、自分に疑惑の目を向けられる一因となる。なにせ、〔きせ〕と福寿庵は商売敵なのだ。
彦蔵は礼を言って立ち上がると、宗吉に名を呼ばれた。
「もしや、ご自身で捕まえよいうという思っているんで?」
「まさか。ただ、自分を納得させたいだけですよ」
「そうですか。お気持はお察しできますが、ご無理をなされないように」
彦蔵は頷いて客間を出ると、女が控えていた。年の頃は十六か七。彦蔵に目を向け何か言いたげであった。
「どうしたのかね?」
そう声を掛けると殆ど同時に、
「お種、何をしているんだい」
と、宗吉が声を被せてきた。
「旦那様……」
「ぼけっとしている暇なんてないんだよ。ほら、さっさとお行き」
お種と呼ばれた女は、慌てて頭を下げると、何か言いたげな面持ちを残してその場を立ち去っていった。
「いやぁ、お恥ずかしい所をお見せしてしまって」
「いえいえ。若い奉公人の躾は難しいものですよ。うちも難儀しております」
「まさか、〔きせ〕さんは躾が行き届いているという話じゃございませんか。もう評判ですよ」
◆◇◆◇◆◇◆◇
「よう」
そう声を掛けられたのは、あけり殺しの下手人探索を開始して五日後の事だった。
万年町に向かう為に渡った相生橋の袂である。
振り返る。すると、そこには長身で馬面の男が立っていた。
南町奉行所本所見廻の大佛丹次郎である。いつもは岡っ引きの餅屋の松吉を引き連れているが、今日は一人だった。
彦蔵は、全身が硬直するのを感じた。幾ら足を洗ったとはいえ、盗賊は盗賊。役人に対しての警戒心が消える事は無い。
「こりゃ、〔きせ〕の彦蔵じゃねぇか」
「これはこれは、大佛様」
「浜五郎に仕事を押し付け、お前は散歩かい?」
「へぇ、まぁ」
「天気もいいしなぁ」
と、ニヤニヤとしながら近付いてくる。彦蔵は丹田に力を込めた。
この大佛という男は、普段こそ賄賂をせびる事しか考えていないように見えるが、その実かなりの切れ者だと彦蔵は思っている。身のこなしといい、時折投げかける言葉選びといい、大佛には剃刀を思わせる鋭さがある。
「しかし、散歩にしちゃコソコソし過ぎきゃねぇか?」
「コソコソ? 私がでしょうか」
「お前以外にいるかよ」
「さて……」
「しらばっくれてんじゃねぇや。福寿庵へ行ったり、中川町の裏店へ行ったり。お前、あけりってぇ女の下手人を探してんじゃねぇのか?」
大佛が、顔を寄せて耳打ちした。
「……」
「お前があけりの男ってこたあ、もうとっくに調べがついてんだよ」
その一言が、彦蔵の肺腑を突いた。
やはり、わかったか。想定していたが、そこから言い逃れる術を思いつかないでいた。
大佛が、厭らしく笑む。彦蔵は表情こそ崩さなかったが、背に冷たいものを感じた。
「何とか言ったらどうなんだ?」
「確かに……。私の、女でございました」
「そうかい。で、別れ話が縺れて殺したのか? それとも悋気に嫌気がさしたか?」
「そんな事はございません」
「本当かよ。石を抱かせてもいいんだぜ」
「大佛様。私は自分の女を殺した奴を探し出したいだけですよ」
すると、大佛は欄干に身体を預け、掘割に目をやった。
「死んだ女房に義理立てして、男やもめを続けていると思ったがね」
「相変わらず、皮肉がお上手で」
「ふん。人間らしくていいと褒めてんだよ」
「……」
「彦蔵、下手人は既に掴んでんだよ」
「本当でございますか?」
大佛が頷いて応えた。
「では、もうお縄に?」
「そうはならねぇだな、これが。まっ、世の中の倣いってもんかねぇ」
「そんな」
「世の中に、人を殺しても罪にならねぇ人間もいるのさ」
それは侍だ。その言葉が、喉元まで出かかった時、大佛が言葉を続けた。
「巣鴨に慈寿荘という寮がある」
大佛が顔を戻した。そこには、世の中を斜に構えて見ている、いつもの人を小馬鹿にした表情は無い。
「益屋という大店の寮でね。そこに、お前が求める答えがある。だがよ、行けば今度こそ、二度と引き返せぬ裏の道を歩む事になるぜ」
「今度こそとは」
「せっかく足を洗って堅気になったのになぁ、鼬目天の彦蔵さんよ」
その言葉に、したたかな衝撃を覚えた。この男は、自分の過去を知っている。知った上で、今まで何度も〔きせ〕で飲み食いをしていたのか。
「それをどこで……」
「慈寿荘の主からだよ」
彦蔵は俯き、固く拳を握りしめていた。
「江戸の闇は深いや。底が見えねぇよ」
そう言うと、大佛は踵を返し片手を挙げた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
月の無い夜だった。
あけりが殺されて、一か月と半が過ぎている。彦蔵は、大身旗本・土井家の屋根の上にいた。
この屋敷に住まう土井讃岐守こそ、あけりを殺した下手人であると、彦蔵は益屋淡雲に明かされた。
淡雲が言うには、福寿庵の離れで土井がさる旗本の妻と密会していたのを、あけりは偶然見てしまったのだという。宗吉は土井が密会に使う事は知っていた。故に誰も近寄らぬよう言い付けていたのだが、その時あけりは女将の頼みで買い出しに出ており、宗吉はその時に女将から伝えられたと思い込んでいたのだ。
不義密通は死罪である。土井は何としてもあけりを抹殺するよう始末屋に命じ、そして実行された。
「その外道を始末してくれるかい?」
淡雲は、その事実を伝えた上で訊いた。当然、彦蔵にそれを断るつもりはなかった。ただ、疑問はあった。淡雲が商人の皮を被った、裏の首領である事は理解した。しかし、見ず知らずの娘が一人殺されたぐらいで、何故そこまでするのか。一歩間違えれば獄門。しかし、成功しても淡雲が得られるものは何もないではないか。
「どうして、斯様な真似をしておられるので?」
返事をする前に、彦蔵は淡雲に訊いてみた。
「私もお前さんと同じでございますよ」
淡雲がそう告げると、穏やかに笑った。小太りで中背。終始笑顔で人の善さそうな印象を受けるが、目の奥は笑ってはいない。それだけで、この男が厳しい裏の界隈で生きてきた事が窺い知れる。
「お前さんは、侍嫌い。私は、外道嫌い。どうにもこうにも、許せねぇだけだよ」
その後、彦蔵は淡雲の話が本当であるかどうか独自に調べてみたが、おおよそ話の通りだった。あの日、福寿庵で彦蔵に話し掛けようとした、お種も同じ事を証言してくれた。また、密会はこれだけではない。土井という男は他にも人妻と密会していて、その殆どは無理矢理手籠めにした挙句、その事で脅し関係を迫っていたようだ。あけりが見た旗本の妻というのも、その口だった。これ以上ない、畜生外道である。淡雲に土井の始末を依頼したのも、そうして脅された人妻達なのかもしれない。
(やっぱり、侍ぇは嫌ぇだ)
彦蔵は鼻を鳴らした。あけりを手にかけた始末屋は始末した。全てを知っていて隠していた宗吉も始末した。二人は淡雲が依頼した標的ではないが、そうしなければ気が済まなかった。残るは、土井だけである。
彦蔵は、音もたてず瓦を滑り降りた。〔鼬目天〕の渾名に違わない敏捷な動きで屋敷に侵入すると、土井を難なく縛り上げ猿轡を噛ませた。
「お前のせいで、俺は裏に戻る羽目になっちまった。でも、仕方ねぇよ。お前はそれほどの事をしでかしたんだぜ」
土井が真っ赤な顔でもがいている。彦蔵はそれを無視し馬乗りになった。
「俺はこれから益屋の走狗になって、外道を狩らなきゃならねぇ。それが約束だからよ。だが不思議と、後悔はねぇんだ。だって、貴様みたいな侍を殺れて銭を貰えるんだ」
懐の匕首を引き抜くと、土井の首筋に当てた。思わず嗤いが込み上げて来た。そういえば、妹を斬った磯貝もこうして殺したものだった。
「お前は俺の女を殺りやがったんだ。文句は言わせねぇ」
彦蔵は満面の笑みを湛えたまま、首に当てた匕首の刃をゆっくりと引いた。
〔了〕
インビジブル・ウィーズル=目に見えない鼬