祝福の日
緊張した面持ちで『まゆみ』はアボット氏の前に立っていた。
【気に入ってくれるかな?】
不安げにこちらを振り返る『まゆみ』に「大丈夫」と声に出さず伝える。それを見て『まゆみ』はそわそわとしながらアボット氏を見上げた。
「大変お待たせいたしました」
わたしはベッドに腰掛けるアボット氏に向かって言った。持っていたガーメントバッグをベッドの上に置くと中から仕上がったばかりのスーツを丁重に取り出す。アボット氏はワインレッドとダークグリーンの格子柄にブルーのラインの入った生地を見て懐かしそうに目を細めた。いてもたってもいられないというように、早速ジャケットを羽織って着心地を試している。
「どうぞこちらも一緒に」
満足げにうなずくアボット氏に私はネクタイとワイシャツを手渡した。ネクタイは京都産のシルク地を使って総手縫いで仕上げた。ワイシャツもネクタイ同様、京都で織られた純綿の白い生地を使っている。光沢のある綾織りの柔らかな手触りが特徴的で肌によくなじむ。
「素晴らしい。想像していた以上の仕上がりです。随分と凜々しい顔つきになっている」
それを聞いて『まゆみ』は誇らしげに笑った。
「ありがとうございます。これで菜穂子さんに会う準備は整いましたね」
そう言うとアボット氏は困ったようにほほえんだ。
「橘さんには何から何までお世話になってしまった。申し訳ないくらいです。本当にありがとうございます」
「いいえ。十分すぎるほどにお代は頂いておりますから。これくらいは当然です」
首を振ると、アボット氏は小さく笑った。
スーツをガーメントバッグにしまい壁に掛けていると、ふと氏が尋ねてきた。
「今日は藤本さんはいらっしゃらないのですか? 荷物を運ぶのは大変でしたでしょう」
そう言って病室の隅に立てかけた原反を指さした。
「いいえ。大荷物には慣れていますから」
苦笑した。確かに原反をここまで運ぶのは骨が折れた。祥平なら仕事柄これくらいの荷物なら楽々運んだだろうが、頼る気はなかった。これで切れる縁だというのならそれでも構わない。今更どんな顔をして会えばいいのかもわからない。
「当日はお迎えにあがります」
鬱屈した感情をどけるように、アボット氏に笑顔を向ける。すると氏は首を振った。
「いいえ。介添えは結構です。そこまで面倒をおかけすることは出来ません」
「ですが……」
「橘さんも結婚式に招待されているのでしょう? 老いぼれの世話など気にかけることなく楽しんで欲しいのです。介添えは他の方に頼むのでどうかご心配なさらずに」
そこまで言われると引き下がるしかない。
「わかりました。では当日会場でお会いいたしましょう」
『まゆみ』のいなくなった店はがらんとして広く感じだ。最初こそは泣き声がうるさくてたまらなかったが、いざ去ってしまうとそれすら愛おしく感じてしまうから不思議だ。
今頃衣服となった『まゆみ』は着られるという喜びを噛みしめているに違いない。それが大好きな人ならなおさらだろう。この手から離れていった『まゆみ』は自分の居場所へと還ってったのだ。そう思えば寂しさも紛れるような気がした。
「わたしも用意をしないと」
今日はハレの日だ。
爽やかな風が遊歩道に植えられた花々を優しく撫でていく。穏やかな日射しの下で小さく揺れる花は嬉しそうにも見えた。
会場となるゲストハウスは郊外の小高い丘の上にあった。
最寄りのバス停から丘の上を目指して歩きながら「タクシーを選ぶべきだったか」と小さく後悔するも、きれいに整えられた風景を楽しみながらのんびり歩くのも悪くはないと気を取り直した。
履き慣れないハイヒールで靴擦れを起こしかけそうになりながら丘を登り切ると思わず感嘆の声を上げた。
石造りの小さな洋館とその周りに植えられたユオニマスの木々。紅葉には幾分か早い時期なのか木の葉はまだ青いが、愛らしい桃紅の実を枝いっぱいに付けている。その光景を感慨深く見つめる。これは運命なのだろうか。それとも誰かによって周到に用意された謀なのだろうか。わたしはそっと笑った。
早々に受付を済ませ、マチの姿を探すがどこにも見当たらない。親族として出席すると言っていたから、おそらく両家の顔合わせを行っているのだろう。わたしは手持ち無沙汰にエントランスと見渡した。招待客は誰も彼もがきらびやかだ。絶え間ない笑顔に明るく弾む声。それを見ているとどうして自分がここにいるのか次第にわからなくなってくるから困ったものだ。いたたまれなくなって、進められるままウェルカムドリンクに口をつけた。
【縁】
ふと『まゆみ』の声が聞こえたような気がして辺りを見回す。だがその姿はどこにも見当たらない。カクテルの酔いが回ったのだろうか。式が始まる前にみっともない。そう思い慌ててウエイターにグラスを返した時だった。
【縁】
はっきりと聞こえた声にエントランスを振り返ると、スラリとした背の高い老紳士が館内に足を踏み入れようとしていた。彼はわたしに気付くと被っていた帽子を外して会釈をする。それはアボット氏だった。『まゆみ』で仕立てたスリーピーススーツをピシリと着込み、背筋を伸ばして立っている。ネクタイの縛り方もポケットチーフの折り方も全てに全く隙が無い。その姿はとても病人には見えなかった。わたしは驚いて氏に歩み寄る。
「ご自分で歩いて大丈夫なのですか?」
「せっかくの祝いの日に車いすに乗っていては格好が付きません。それに、いざという時には彼が頼りになります」
そう言って振り返ると、そこにはダークスーツを着込んだ祥平がいた。気まずそうな顔をして小さく肩をすくめている。そんな祥平を見てアボット氏は冗談めかして言った。
「彼なら何かあっても、私ぐらい軽々と担げるでしょう?」
「そんなことがあったら困ります」
困惑するわたしにアボット氏は尋ねた。
「ところで橘さん。足を痛めているのですか?」
そう言われて靴擦れがジンジンと痛むことに気がついた。なれない空気に気を遣ってそれどころではなかったのだ。
「気にしないでください。慣れない靴で靴擦れを起こしただけです」
すると、アボット氏は祥平を振り返って言った。
「藤本さん、なにを突っ立っているのです? 早くレディの手当を」
「いえ、結構です!」
慌てて断るが、アボット氏は有無を言わさず祥平を従わせた。氏はわたしを手近なスツールに座らせると祥平が足元に跪く。ギョッとして思わず顔を背けた。手際よく応急処置を施す祥平に苛立ちを覚えるが、それよりもそんな思いを抱える自分に腹が立つ。
「無事に仕上がってよかった」
不意にかけられた言葉に目を向けると、祥平は視線をそらしたまま続けた。
「完璧だよ」
「……うん。ありがとう」
素っ気なく答える。
ぎくしゃくするわたしたちに気付いたのか、アボット氏は祥平を立たせると受付を済ませてくるようにと言った。受付の列に並ぶ祥平の後ろ姿を見て、氏は口を開く。
「そんな顔をしないでください。彼を連れてきたことを怒っていますか」
なんと答えたらいいのかわからず、わたしは首を振った。
「彼はあなたを好いているようだ。ここへ向かう道中、ずっとあなたのことを話していましたよ」
アボット氏の言葉に戸惑い、もう一度首を振る。
「……彼が惹かれているのはわたしではありません。わたしの持つ力です」
「それを含めてあなたではないのですか? それに彼はあなたが思うほど単純な男ではありませんよ。しっかりと覚悟を持っている」
「覚悟、ですか?」
「ええ、生涯を捧げるだけの覚悟を持っているように感じます。私のようにね」
そう言ってアボット氏は笑ったが、わたしは否定することしか出来ない。
「たとえそうだとしても、わたしは彼には相応しくありません。彼はもっと純粋で可愛らしい娘がお似合いです」
「それはあなたのことでしょう?」
「えっ!?」
「純粋で可愛らしいじゃありませんか。少なくとも私にはそう見えます」
「……アボットさんのフィルターは曇っています」
「随分なことをおっしゃる。これでも画廊のオーナーをしていたのですよ。審美眼は人一倍持っているつもりです。あなたはご自分のことをよくわかっていないようだ。深い森の奥で立ち咲く花のように凛としている。それは誰もが目にすることは出来る代物ではありません。けれど、一度目にしてしまったら決して忘れることは出来ない。心の奥に焼き付いてしまうのです。彼はきっと森の奥に分け入って見つけてしまったのでしょうね。あなたという花を」
「夢のあるお話ですが、それはただの空想です」
「確かに。老人の戯言だ」
一つ息をついてアボット氏は再び口を開いた。
「捨ててしまいなさい。自分も周りも苦しめるだけの意地なら捨ててしまった方がいい。素直に手を伸ばせばいいのです。そうすれば彼の覚悟がそれほどのものか簡単にわかりますよ。あのとき私に喝を入れたあなたは一体どこに行ってしまったのです? 私の未来を作ってくれたあなたが自分の未来を作れないわけがない。そうでしょう?」
そう言うとアボット氏は確信に満ちた顔でほほえんだ。
そしてそのときはやってくる。
案内係がエントランスに向かって言葉を放った。
「皆様。お式の準備が整いました。どうぞチャペルへお進みください」
言い終わるが早いか、親族控え室の扉が開く。それを見てアボット氏は居住まいを正した。何人もの親族を見送り、最後に控え室から出てきた女性を見つけて氏は息を飲んだ。そしてそっと歩み出る。ゆったりとしたストレートラインのワンピースにジャケットを着た菜穂子さんは同じ『まゆみ』の生地のスーツを着たアボット氏に気付くと、立ち止まって深々と会釈をする。アボット氏はたまらずといった様子で菜穂子さんの元へ歩を進めた。
「なお」
呼びかける声がかすかに聞こえる。
二人はいくつか言葉を交わし、手を取り合うとほほえみ合った。二人を隔てていたはずの長い年月など一瞬にして払いのけるように。他の招待客が不思議そうに二人を眺めていたが、そんな視線を当人たちは気にする様子もない。手をつないでチャペルへと向かうアボット氏と菜穂子さんは長年連れ添った夫婦のようにも見えた。
小さなチャペルはステンドグラスに彩られていた。厳かな雰囲気とこれから始まろうとする儀式に期待し、皆が口を閉じる。
誰もがそのときを待っていた。
やがて閉ざされたチャペルの扉が開いて、花嫁が姿を現す。ステンドグラスの明かりがウエディングドレスを照らしだし、レースに鮮やかな影を落としている。千秋さんはステップを踏むように軽やかな足取りでバージンロードを歩いた。スカートの裾は歩くたびにひらりと揺れ、光を孕んでいく。誰もがその姿に目を奪われた。ウエディングドレスと作ったわたしでさえも。そして気付く。花嫁が美しいのはドレスのせいではないのだと。ドレスはただの付属品でしかないのだ。本当に美しいのはそれを着こなす花嫁。その姿はまるで舞い降りた天使のようだった。
そしてもう一人、菜穂子さんもまた輝く一人だ。その光は慎ましく穏やかだが、確かに光を放っている。まるで少女のように輝く横顔は初恋を思い出しているのだろうか。アボット氏と固く繋いだ手を大切そうに抱えてじっと挙式が進んで行くのを見守っている。
神父の言葉に合わせてアボット氏が菜穂子さんに何事かを囁いている。菜穂子さんは肩を震わせて小さくうなずいた。
【お母さん】
『まゆみ』が菜穂子さんを見上げてそっと囁くと照れくさそうにはにかんだ。
それを見てわたしは一人納得する。
『まゆみ』は二人の間に存在していたかもしれない命だったのだろう。だから自分のことを「アボット氏の見損ねた未来」と言ったのかもしれない。
この日、この運命の丘で二組みのカップルが永遠を誓った。
柔らかに降り注ぐ日射しの下で、全てが今日という日のためにあるような気さえした。この祝福の日に。
ウエディングドレスの描写とか入れたかったけど文字数が怖くて入れられないという……orz
2017/06/13 ウエディングドレスの描写などちょこちょこ書き足しました。