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存在する意味

 スーツを仕立てる前にまずやることがある。それは地直しと呼ばれる行程だ。型崩れや寸法変化を防ぐためにあらかじめ生地に熱と蒸気を当てる必要がある。スチームアイロンで簡易的に行う場合もあるが、『まゆみ』の場合は長いあいだ原反のまま巻かれていたので必要な数量のみを業者に出すことにした。

【怖くない?】

『まゆみ』が不安げにわたしを見上げている。今まで一度も切り分けられたことが無かったようで、酷くおびえていた。

「大丈夫。なにも怖いことはないから」

 微笑みかけるとわたしは『まゆみ』にはさみを入れた。毛織物を裁つときの独特の感触がはさみを通して手に伝わる。怖がらせないように一気に裁ち切った。そのまま生地をたたんで用意していた大きめの紙袋に入れる。振り返るとソファに座っていた祥平と目が合った。

「メーター数多いけど、いつも通りに仕上がる?」

「ああ。向こうは機械に入れて一気にスポンジング(地直し)だ。多くて一日ってとこだな」

 地直しは祥平の実家の生地問屋を介して行っている。その方が価格が割安になるのでよく利用していた。

「じゃあよろしく」

 そう言って生地を祥平に託す。すると彼はまじまじとわたしを見つめて言った。

「泣きたくなったら言えよ」

 突然投げかけられた言葉の意味がわからなかった。怪訝な表情をしたのだろう。祥平は続けた。

「遠慮すんなよ。いつでもいいから呼べ」

 遠慮もなにもそんな気は微塵もない。「いらない」と言おうとして思い直した。

「そんなに酷い顔してる?」

 だとするなら、『まゆみ』が不安がるわけだ。改める必要がありそうだ。一人で納得していると祥平はそれを否定した。

「いや。めちゃくちゃいい笑顔だよ。恐ろしいくらいにな」

「ならいいじゃないか」

「無理してるようにしか見えない」

「無理なんかしてない。いつも通り」

「嘘つけ。いくら取り繕ったって俺にはわかる」

 そう言われて腹が立った。

「勝手にわかった気になるな」

 投げつけた言葉の先にある彼の眼差しに気付いて、凍り付いた。瞬間、体を支配するのは絶望。思わず目をそらす。

「そんな目で見るな!」

 叫んだ声は果たして形を成していただろうか。自分の耳にも入らないほど、その声はかすれていた。

 やめてくれ。そんな目で見ないでくれ。鼓動が早鐘のように鳴っている。

 やはりそうだった。今まで知らないふりをしてきたし、これからもそうしようと思っていたのに、それももう限界なのだろうか。恐怖で体が震えた。

「おい?」

 わたしの様子がおかしいことに祥平は気付いたのだろうか。突然腕を掴まれた。へし折られるのではないかと思うほどの強い力にたじろぐ。

「変だぞ」

 その言葉の後に指先が頬に触れた。

 息が、止まる。

 見上げれば、すぐ近くに彼のあの眼差しがあるのだろう。

 拒絶するように祥平の手を力一杯払いのける。

「そんな目で見るな!」

 今度はちゃんと届いたようだ。空気が一気に険を含む。

「どんな目だよ。心配してるだけだろ」

「そんなのいらない。心配なんてしなくていい。わたしは一人で大丈夫。一人でやっていける」

 まくし立てて首を振った。

「俺は邪魔だってか。大好きな布に囲まれてればそれでいいってか」

「そう」

 うなずくと、祥平は大きく息をついて店を出て行った。

 ドアベルが鳴り止むのを聞きながら、体温が急速に下がっていくような錯覚を覚えた。


 二日後、地直し済みの生地が宅配で届いた。

 祥平の顔を見ずに済んだことにほっとする。

 届けられた生地を吟味し、『まゆみ』を振り返る。

「さあ始めようか」


 柄物、とくにチェック地の裁断は慎重に行う必要がある。どこに柄を通すかで印象がガラリと変わることがあるからだ。手際よく各パーツごとに分けていく。芯地は、やせ衰えた体を補強させるために肉厚なものを選んだ。

 今回は本生地での仮縫いをしないことを踏まえて、縫い代を均一にさせた工業用パターンを採用していた。工業用パターンは裁断の時点で柄がしっかりと合っていれば縫製はスムーズに進められるように出来ている。前身頃、後ろ身頃、見返し、袖、衿とそれぞれをパーツごとに仕立て上げ、最後に全パーツを組み立てる。

 ボタンはマーブル調の水牛ボタンを使用する。天然素材のため熱や水に弱いがウール素材の生地との相性は抜群だ。それに見合うように、ボタンホールは絹糸を使って手かがりをすることにした。針目は一刺し一刺し丁寧に。なおかつしっかりと糸を引き締める。織り糸一本でも針目がズレてしまうと不格好になってしまうので運針は慎重に。

 縫製作業をしていると頭のなかが空になってなにも考えないで済む。体が工程を覚えているから、ただ目の前の作業に没頭すればいい。わたしは夢中で手を動かす。

 作業を興味深く観察していた『まゆみ』がふと口を開いた。

【寂しいの?】

 突然かけられた言葉に首をかしげる。

「なにが?」

【とても寂しそうな顔をしているよ】

「わたしが?」

【うん】

 うなずく『まゆみ』に戸惑った。寂しいなどとは微塵も感じていない。店内に流れる静かな空気がそうさせているのだろうか。けれど、よく考えてみれば一つ思い当たることがあった。

「この仕事が終わって君と別れるのは寂しいね。毎日賑やかだったから」

【ぼくがいないと寂しい?】

「そうだね」

 うなずくと、『まゆみ』は小さくほほえんだ。

【ぼくも、縁のところへ来られて本当によかったよ。そうじゃなかったらきっとぼくの声は誰にも届かなかったと思うもの】

 その言葉が温かくて、ほほえみ返す。わたしは自分に出来ることをしたまでだ。それでもそんな言葉をかけられるのはこそばゆい。

【だからね】

『まゆみ』が言葉を継いだ。

【縁にも幸せになって欲しいんだ】

 その真意がわからず、ハタと目の前の少年を見返す。

【ぼくに未来をくれる縁の手は、とっても優しいんだよ。だから】

 果たしてそれに続く言葉はあったのだろうか。『まゆみ』は大きくあくびをすると眠りに落ちていった。

『まゆみ』のいう幸せとは一体どういう定義なのだろう。自分の店があって、納得できるまで仕事を突き詰める環境がある。わたしは今のままで十分満足している。これ以上望むことはない。

「その力が無ければ、誰も見向きもしないから」

 ふと、脳裏に言葉がよみがえる。もう二十年近く昔に投げつけられた言葉だ。わたしを産んだ人が別れ際に吐き捨てた言葉だった。それは呪詛のようにわたしを蝕んで、いまだに縛り付けている。

「わかってる。そんなことは」

 誰もいない店内に放られた声はただ自分の耳に戻ってくるだけだ。

 当たり前のように備わっていたこの力が無かったら? 

 考えたことがないわけじゃない。けれどそれはいつも恐ろしい結果を導き出した。

 なにもない空っぽな自分。存在する価値のない自分。

 考えただけでも恐ろしかった。だから、わたしはそれを打ち消すように必死で服を作る。

「ここにいてもいいんだよ」と誰かが言ってくれるのを待つように。

 けれど、必死で作れば作るほど自分がその力に頼っていることに気がついて、愕然とするのだ。結局わたしはこの力が無ければなんの価値もないのだと。

『まゆみ』の運命を、アボット氏の未来を、創ると言っておきながら自分は中途半端なまま。もしも、全てが運命だとするなら。六十年前アボット氏と菜穂子さんが出会ったときからわたしがこの力を持って生まれてくるよう定められていたのだとしたら。それならば少しは救われるような気もした。せめて、自分の運命を肯定させて欲しかった。


「縁がいなくなるのは耐えられないって」

 久しぶりにまともな食事を摂っていたわたしに向かってぽつりとマチが言った。わたしはマチの作った雑炊をすすりながら相槌を打つわけでもなく聞く。この一週間ほど仕事に没頭してまともに食べていなかったから食事を作りに来てくれたことは感謝していた。しかしどうやらそれは口実のようで、実際は祥平に頼まれたからだったようだ。

「祥ちゃんとケンカしたの?」

 問われても「違う」と言うことしか出来ない。

「本当は自分が側にいたいくせに、あたしに押しつけるの。一人で泣かせられないって。でも、縁はあたしの前で泣いたことないのにね」

 悲しげに笑うマチにわたしは「そうだっけ?」と返した。

 泣くということは弱みを見せることだ。信じていないわけではないけれど、つけ込まれるのではないかと思うと気安く泣けるわけもない。気丈に振る舞う以外なにが出来るだろう。

「早く祥ちゃんと仲直りしてね」

 そう言い残してマチは帰っていった。

 ケンカをしたつもりはなかった。ただの一方的な拒絶だ。あのとき、祥平がわたしに向けた眼差しを思い出すと今でも震えが止まらなかった。一途に見つめる眼差しはファッションの女神に向ける目そのものだった。

「その力が無ければ」

 頭のなかであの人が囁く。

 わかっている。あの人が言っていたことは正しいのだと。この力を失ったらわたしにはなにもないのだと。

 けれど、自分にはこれしかないとわかっていた。だからこそ一人で立つのだ。自分の足で。そうでなければ彼らと対等にはなれないから。

微甘か? と思ったら鬱になったり。

主人公が暴走気味でした。

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