未来を創る手
「本当にそんなことお願いしてもいいの?」
ウエディングドレスの納品のために来店した千秋さんが戸惑いながら聞いた。
「はい。あまり気にしないでください。わたしの自己満足なので」
「縁さんにはお世話になりっぱなしね。ドレスも素敵に仕立ててくれたのに。絶対に挙式に参列してね」
そう言って千秋さんはわたしの手を強く握った。
「ありがとうございます。ぜひ伺わせていただきますね」
笑顔で手を降る千秋さんを見送って、わたしは店を閉めた。
わたしは電車を乗り継いで買い出しに出かけた。ウエディングドレスが無事に納品できたので、いよいよ『まゆみ』の番だ。必要な副資材を調達しなければならない。しかし、その前に行かなくてはならない場所があった。
電車を乗り継ぎ、残暑の厳しい日差しの中辿り着いたのは母校だ。目的地は購買部だった。
生地屋を覗くとエプロンを着けた祥平が店じまいをしていた。夏休み中のため半日営業らしい。
「おつかれ」
声をかけると、祥平はワゴン売りの生地を片付けながら手をあげた。
「こんなとこまで来るなんて珍しいな。デートのお誘い?」
「んなわけあるか。アボット氏の入院先知りたくて」
「もうすぐ終わるからちょっと待ってろ」
「ん」
その場で待っているのも手持ち無沙汰なので学食で軽く食事を摂ることにした。夏休み中とあって昼時でも学食は人がまばらだ。カツサンドにかじりついていると声をかけられた。
「相席いいかしら?」
目を向けると猪瀬先生が食事ののったトレーを持って立っている。どうやら学生の補習に付き合っているようだ。腕にピンクッションを付けたままになっている。
「どうぞ」言うが早いか、猪瀬先生は椅子を引いた。
「ごめんなさいね」
席に着くなり、唐突に言われる。
「なんですか?」
訳がわからずにわたしは問い返した。
「ハロルドのこと、藤本君から聞いたわ。酷なことをしてしまったと思って」
猪瀬先生はアボット氏をわたしに紹介したことを悔やんでいるようたっだ。布の声を聞くことが出来るということは、その服に殊更愛着を持つということ。自分で仕立てるとしたら尚更だ。わたしが仕立てようとしている服の末路を知って、猪瀬先生は気に病んだのだろう。
だが、
「気にしないでください」
わたしは首を振った。
「いつかは巡ってくることだったんです。わたしの場合は、それが最初になってしまっただけのことです」
「……そう」
猪瀬先生は小さくうなずくと、手つかずだった生姜焼き定食に口をつけた。
「なんで付いてくんの?」
「いいじゃん。心配なんだよ」
「なんの心配? 小学生じゃあるまいし」
わたしに付いて電車に乗り込んでくる祥平を見て思わずため息がもれた。
「見舞いは人数が多い方がいいだろ?」
「見舞いって……。まあそうだけど……。わたしは一応仕事で行くんだよ」
「依頼内容の確認だろ? 邪魔するつもりはないから、どうぞお仕事してください」
そう言う祥平に胡乱な目を向ける。
「なんか、邪心がありそうな顔してる」
「はあ? どこが? 誠心誠意尽くしてるだろ? せめて夕飯くらい~とは思ってるけどさ。もちろん奢るし」
「いらぬ」
誘いをはねつけると祥平はむくれて目を眇めた。
「なんだよ。少しでも元気づけようとしてだな」
「別に落ち込んでないし」
そうだ。わたしは落ち込んでなどいない。やるべきことを。自分の使命を果たすだけだ。窓の向こうの飛び去っていく景色のように。これはただ通過点に過ぎない。みな、わたしを置いて行ってしまうだけで。
「慰めるだけの度量は持ってるはずなんだけどなあ」
祥平の戯れ言を聞き流して、わたしはただ車窓を眺めた。
アボット氏が入院しているのは、街中から離れた山間に立つ総合病院だった。午後の遅い時間ということもあってか院内は思ったよりも人がまばらだった。受付で病室を照会してもらい病棟へ向かう途中、連れだって歩いていた祥平がふと立ち止まった。
「あれ」
そう言って指をさしたのは病院の中庭だった。手入れの行き届いた中庭は入院患者の憩いの場らしく、数人が日の暮れかけた外の空気を吸っている。祥平が指しているのはその奥に据えられたベンチに座るやせ細った老人だった。紺色のガウンを羽織ってぼんやり木を見つめている。
祥平がなにを言いたいのかわからずに、わたしは彼を見上げた。
「よく見ろよ」
促されて再び視線を向ける。
その顔の輪郭を見て、わたしは息を飲んだ。
「まさか……」
ベンチに座っている老人。それは紛れもないアボット氏本人だった。店を訪ねてきたときの面影はほとんど無く、酷くやせ衰えている。病魔が、確実に彼を蝕んでいた。
ふと、アボット氏が見つめている木がユオニマスだということに気付いた。鮮やかな赤い実のなる庭木を見つめながら、その向こうにある記憶を探るように目を細めいている。おそらく『なお』の記憶を探しているに違いない。六十年という長い月日を経てなお恋人の面影を探し続けるというのは、どれだけ辛いことだろう。
わたしはいてもたってもいられず中庭を突っ切ってアボット氏に近づいた。
「まだ恋人を探しておられますか?」
声に気付いたアボット氏が顔を上げる。わたしの姿を認めると彼は小さく微笑んだ。まるでわたしがここに来ることを知っていたかのようだ。
「橘さんですか。いつかは訪ねてこられると思っていましたよ」
「なぜ『まゆみ』を置いて行かれたのですか? 『まゆみ』は『なお』に繋がる大切な道しるべだったはずです」
するとアボット氏は微笑んだ。
「どうやらあなたには隠し事は出来ないようだ。『まゆみ』があなたに教えたのですね。あの子はいい子にしていますか? ご迷惑をおかけしていなければいいのですが」
「『まゆみ』はあなたのために仕立てられることを望んでいます。あなたとずっと一緒にいたいと言っていました。あなたが大好きだからと。けれど、『まゆみ』は恐れています」
「なにを恐れるのです?」
「あなたに必要とされなくなることを。『なお』が見つかったら、自分は必要なくなるのではないかと」
そう言うとアボット氏は目を伏せた。
「彼女は。『なお』は私の女神です。永遠のときを刻む愛おしい女神です。もう何十年も昔の話です。けれど、私は昨日のように思い出すことが出来る。彼女のはにかんだ笑顔。優しい鈴音のような声。それから、小さくて温かな手のひらの感触。一目惚れでした。視線が交わった瞬間に私は魔法にかけられてしまったのです。この魔法が永遠に解けなければいいと願った。その願いはどうやら叶えられそうです。私は幸福な魔法にかけられたまま長い眠りにつくことが出来る。彼女の残した『まゆみ』と共に」
「本当にそれでいいと? それであなたは本当に幸せなのですか?」
「私にはもう、多くを望めるほどの力はありません」
首を振るアボット氏にわたしは一通の手紙を差し出した。宛名のない手紙を見て不思議そうにわたしを見上げるアボット氏にわたしは言った。
「あたなの、恋人からです」
「『なお』から?」
「はい。原口菜穂子さんから」
その名前を口に出すと、アボット氏は驚いたように息を止めた。
「なぜ、その名を?」
「運命という名の縁を『まゆみ』が繋いでくれました。菜穂子さんが、必ずあなたに渡して欲しいと」
迷いを含む沈黙が流れた。しばらくして迷いながら受け取ろうと差しのばされた手は、しかし力なく落ちる。その苦渋に満ちた表情に絶望を覚えた。
「こんな年老いた私に一体なにが出来るでしょう? それは受け取ることは出来ません」
「なぜです? あなたはずっと菜穂子さんのことを探していたはずです。こんな機会は二度と巡ってこない」
「やめてください。私に残された時間は幾ばくもないのです。そんなことをしては、心穏やかに死ぬことも出来ない。酷なことをしないでください」
「それなら、足掻けば良いじゃないですか! 生きたいと足掻けば良いじゃないですか!」
アボット氏の言葉に、わたしはたまらずに叫んだ。感情があふれて止まらなかった。
しかし、わたしはすぐに口に手の甲を当てて息を整えた。
「今日は、ご依頼内容を訂正していただきたく参りました」
「依頼を? 受けたくはないと?」
「いいえ」わたしは首を振った。
「もう一つ、わたしに依頼をしてください。『まゆみ』でレディースのツーピースを仕立てて欲しいと」
「レディースを?」
不思議そうに問い返したアボット氏にわたしは続ける。
「それがあなたの願った未来なのではないですか? 『まゆみ』が言っていました。自分はあなたが見損ねた未来なのだと。いつか、菜穂子さんとともにあのタータンを仕立てるつもりだったのではないですか? 今からでも遅くはありません。どうか、わたしにお二人の未来を仕立てさせてください」
「橘さんのお気持ちはありがたい。ですが、それは出来ません」
頑として拒否するアボット氏に食い下がる。
「永遠に続く未来など無くても、永遠と感じられる一瞬はまだ残されているはずです。どうか、わたしにその一瞬を創らせてください。あなたの『まゆみ』の幸せのために」
長い沈黙の後で、深いため息が聞こえた。目を向けるとアボット氏は微笑んでいた。
「永遠を抱えて逝くのも悪くないかもしれないですね」
そう言うと、アボット氏は手紙を受け取った。
『まゆみ』で仕立てるスーツのデザインはすでに決まっていた。
英国風の細身のシルエットのテーラードスリーピーススーツだ。
ジャケットの衿は細めのラペルで。ウエストはきっちりと絞り、裾のフレアはしっかりと出す。ポケットも両玉縁ポケットを縦に二つ並べるチェンジポケット仕様。バックスタイルがすっきりと見えるサイドベンツ。ベストは後ろ身を別布で切り替えてスタイリッシュに。パンツはインタックを取ってすっきりと。
病室での採寸データを元にパターンを引いてく。寸法は当初アボット氏が指定していたサイズとは随分異なっていた。改めて採寸をしておいてよかったと安堵のため息がもれる。
日々やせ衰えていくアボット氏の体に合わせてスーツを作るのは困難を極める。だが、ここで妥協することは出来なかった。仮縫いのために病室を訪れるたび、アボット氏の瞳は生き生きと輝きを増していた。
「永遠と感じられる一瞬を作る」
大口を叩いた以上、持てる限りの力を尽くさなくてはならない。
会話の多い回です。文字数が足りるか心配になってきた……。