貴婦人のレース
わたしは色のない雑踏の中に一人で立っていた。
押し寄せる不安な感情に戸惑いながら辺りを見回す。
不意に、見知った後ろ姿を見つけて叫んだ。
「お父さん!」
お父さん? 自分で発したはずの声に違和感を持つ。
人混みをすり抜けて、わたしは「お父さん」と呼ぶ背中を追いかける。
けれど、どんなに走っても追いつくことはない。
背中の主もなにかを追いかけているのか、それはどんどん遠ざかっていく。
「待ってよ、お父さん!」
泣き出しそうな声が叫ぶ。
ふと、「お父さん」がアボット氏だと言うことに気がついた。
そこでようやくこれが夢だということに気付く。『まゆみ』がやって来た日から毎晩のように続く夢だ。どこまで行っても続く雑踏の中で、『まゆみ』は必死にアボット氏を追いかけているのだ。けれど、『まゆみ』は決してその背中に追いつくことは出来ない。
アボット氏の声がかすかに誰かを呼ぶ。
「なお」と。
それを聞いて立ち止まった『まゆみ』は苦しそうに呟いた。
「お父さんが呼ぶのは、ぼくじゃないんだ」
夢はそこで終わる。
鈍い頭痛とともに覚醒すると、相変わらず『まゆみ』の泣き声が聞こえてきた。
*
まっさらな紙の上に鉛筆の線が重なっていく。
スタンドカラーにランドネック。パフスリーブにフレンチスリーブ。スカートの着丈はロング丈からミモレ丈まで。明るく弾む声が紡いでいく空想上のウエディングドレスが次々と絵に起こされる。
「クラシックレースも素敵よね」
千秋さんの声に反応して、わたしはすかさずラフ画にレースを描き加える。
「スタンドカラーの衿部分とか、パフスリーブのカフス部分に使うと全体的に可愛らしくなるかな。あるいは、サテン生地の上に贅沢にレースをのせて女性らしくするとか」
「わあ! どれも素敵で迷っちゃう! ねえ、おばあちゃんはどれがいいと思う?」
千秋さんが嬉しそうに悲鳴を上げる。テーブルの上に散乱したラフ画をあれこれと見比べて目移りしているようだ。
「そうねぇ。豪華にするのも良いけど、すっきりしたドレスの方が大人っぽくて良いんじゃないかしら?」
そう言って取り上げたのはボートネックにふんわりとしたスカートのラフ画だった。
「これなんか素敵じゃない。シンプルで」
「おばあちゃん、それじゃヘプバーンそのものじゃないの」
菜穂子さんの手元をのぞきながら千秋さんはカラカラと笑った。確かに、その絵は最初の要望だったヘプバーンが来ていたドレスのデザインそのものだった。
「せっかくオーダーメイドにするんだから、ヘプバーンと同じなんてつまらないじゃない? ねえ、縁さん?」
「ドレスの再現もなかなか楽しそうですが、せっかくなので千秋さんの納得行くものを作りましょう。とことん付き合いますよ」
「だってさ、聞いた? おばあちゃん。嬉しいね」
千秋さんの笑顔はキラキラとして眩しい。ウエディングドレスを選ぶ女性の笑顔はどうしてこうもまばゆいのだろう。
千秋さんは菜穂子さんに似てとても気立てのよい女性だ。明るく朗らかで、自分の考えをまっすぐはっきりと述べることが出来る。身なりからもそれはうかがえた。シミのない清潔な服装は決して真新しい衣服というわけではなく、彼女のものを大切にする精神が伝わってくる。それに加えて、頭のてっぺんからつま先まで幸せなオーラで満ちあふれているのだ。まるでわたしとは正反対のところにいると言ってもいいくらいだった。この天と地ほどの差に一度気付いてしまうと愕然としてしまうものがある。
「懐かしいね」
隣で成り行きを見守っていたマチが耳打ちする。危うく自己否定の波にさらわれるところだった。小さく息をつき、うなずいた。
「そうだね」
思い返せば、マチのドレスの時も夜遅くまで二人でデザイン案を出し合ったものだ。あの頃の思い出は青春の一ページとして大切に保管してある。
「どうしてそんなにヘプバーンにこだわるんですか?」
不意にマチが聞いた。
確かに。頻繁に出てくる名前を疑問に思ってはいた。
すると、千秋さんが含むように小さく笑った。
「おばあちゃんのね、初恋なの」
「ヘプバーンが?」
不思議そうにたずねるマチに、菜穂子さんが言葉を継いだ。
「私が初恋の人と観た初めての映画がヘプバーンだったのよ。見終わった後にうっとりしていたら、彼が『きっと君にもあのドレスは似合うだろう』って。照れながら言ってくれたの」
「素敵ですね。その方とはどうなったんですか?」
菜穂子さんは少し寂しそうに首を振った。
「なにもなかったわ。会えなくなって気付いたのよ。ああ、私は恋をしていたんだって」
「それから?」
耳を傾けていたマチが身を乗り出した。しかし菜穂子さんは困ったようにほほえんで「それでおしまいよ」と続けた。
「それからしばらくして縁談があってね。やけっぱちになっていたのかもしれないけれど、ろくにお付き合いもせずに結婚したのよ。それがいけなかったのかしらね。娘が生まれても上手くいかずに結局駄目になってしまったのよね」
小さく笑う菜穂子さんを見て千秋さんが首を振った。
「笑い事じゃないってば! ゆゆしき問題! だから、これは呪いなのかもって思ったの。その呪いは、初恋の人と結ばれない限り続いていくのかもしれないって」
「もしかして千秋さんのお相手は?」
「小学校の同級生よ。初恋の人なの」
「じゃあ、呪縛がやっと解けますね」
意気揚々と言い放つ千秋さんにわたしは思わずほほえんだ。
デザインを決めながら談笑をしているとドアベルが鳴った。振り向くと祥平が手刀をつくって顔の前につきだしている。その口が「遅くなった」と声に出さずに謝った。
「ちょっとすみません」
わたしは話の腰を折ってしまうことを詫びながら席を立った。
「遅い! 昼までには届けてって言ったはずだけど?」
「悪い。急用があってさ」
「わざわざ届けに来なくても、宅配で良いのに」
「せっかく橘が必要としてくれてるのに、俺が助けないでどうするよ」
そう言いながら祥平は紙袋を差し出してくる。
「必要としているのは生地であっておまえじゃない」と言おうとしたが、ぐっと堪える。ここで言い合うわけにはいかない。一応来客中なのだ。
「要望のあったウエディング用の生地見本。それから親父が持って行けって、インポート生地の見本も。こっちはレース調のが主だな」
「ありがと。助かる」
わたしはそれを受け取ると、テーブルの上に生地見本を広げた。
「生地を眺めながらの方がデザインの印象が固まるかもしれませんよ。気に入った生地があれば仰ってください」
千秋さんの瞳が一層輝いた。やはり生地見本があるとないとでは全く違う。シルクサテンやレースの手触りを確かめながらうっとりとため息を漏らしている。
すると帰ると思っていた祥平がわたしの隣に座ってきた。
「デザイン画の授業嫌ってたくせになかなかうまいよな」
テーブルの上のラフ画を手に取りちゃっかり会話のなかに入ってきた。
「このシルクオーガンジーはハリがあるからパフスリーブの形がきれいに出ますよ。ああ、でもこっちのシンプルなデザインだったらやっぱりミカドシルクかなぁ」
「帰らないのかよ」思わずツッコみそうになったが、突然会話に入ってきた祥平の的確なアドバイスに千秋さんもその存在を違和感なく受け入れている。マチに関してはすでに彼の分の紅茶を淹れていた。
黙っていたらこの二人に仕事を取られそうだ……。
「わあ! このレースとっても素敵!」
インポートの生地を眺めていた千秋さんがレースの生地を指さしている。横糸と縦糸の織りなす繊細で壊れそうなチュールが魅力的なレースだ。
「リバーレースですね。お目が高い」
すかさず祥平が言った。
リバーレースは一万本以上の縦糸と横糸が絡み合い緻密で細やかな模様を表現した上品なレースで「レースの女王」とも呼ばれている。しかしリバーレース機本体は現在は生産されておらず、現存する機械でのみの生産のためその価値は高い。
「縁さん、このレース使えるかしら?」
どうやら一目惚れのようだ。千秋さんは数あるレース生地に目もくれずに問いかけてきた。
「大丈夫ですよ。このレースが映えるデザインを考えましょう」
微笑みかけると、千秋さんは嬉しそうにうなずいた。
「それならオーガンジーを裏打ちして総レースのドレスとかどうだ? かなりエレガントになるぞ」
「それは千秋さんと話し合うからちょっと黙ってて」
隙があれば口出ししようとする祥平を小突いていると、先ほどからにこにことしていた菜穂子さんがわたしに言った。
「素敵な旦那さんね」
思わず絶句した。なにをどうすればそうなるんだ?
【ちょっとお嬢さん。あの坊やどうにかならないの?】
採寸した寸法を元にCADでドレスのパターンを引いていると、聞き慣れない声が話しかけてきた。マウスを操っていた手をピタリと止める。ハタと時計を見ると夜中の一時を回っていた。没頭していたらいつの間にかこんな時間になっていたらしい。
わたしはパソコン用のメガネを外して振り向いた。
【このままじゃ落ち着いて仕立てられることも出来ないわ】
ロココ調のドレスをまとった貴婦人が腕を組んで仁王立ちをしている。
「申し訳ありません、マダム」
彼女は千秋さんが一目惚れしたレース生地だった。生地を決めた翌日には祥平の手によって届けられていた。それから二日が経つが、彼女はずっと『まゆみ』の泣き声を耐えていたらしい。しかしそれも限界を迎えたようだった。
わたしは作業台に出したままだったレース生地を丁寧にたたんで棚に置いた。
「もう少し辛抱していただけますか?」
【もう少しってどのくらいかしら?】
苛立ちを隠さずにマダムが睨みつけてくる。
仕方無い、『まゆみ』をどかそう。
わたしは小さくため息をついてタータンの原反に近づいた。重い原反を一人で動かせるかどうか不安だが、それよりも『まゆみ』が大人しくしていてくれるだろうか……。
【触らないで!】
案の定、触れようとすると彼は叫んだ。あまりの声に耳をふさぐ。
すると『まゆみ』の態度を観ていたマダムが声を張り上げた。
【私たちは仕立てられるためにここにいるのよ。それを触られるのが嫌だなんて一体なにを考えてるの? あなたは着てくれる人のことを少しでも考えたことがある? 心地よい服になって初めて私たちがここにいる価値が生まれるのよ】
どうやらマダムの言葉は『まゆみ』に届いたらしい。彼はピタリと泣くのをやめた。
【ぼくが服になるの?】
自分自身に問いかけるように小さく囁いている。
『まゆみ』には服になるという観念がなかったようだ。その言葉を何度も反復しながら泣くのをやめた。
それだけで十分ありがたかった。耳鳴りも無くなってずいぶん快適に仕事が出来る。
そんなある日、祥平がある事実を携えてやってきた。わざわざ店外に連れ出す辺り、あまり『まゆみ』に聞かせたくない話のようだ。
「それは本当?」
祥平の言葉に唇を噛んだ。予感はあったのだ。悪い予感が。
「ああ。周りには隠してるみたいだったが、どうやらあのご老人はそんなに長くはないみたいだ」
「でもそんなことどこから? 猪瀬先生だって知らないようだったのに」
「新しい画廊のオーナーに聞いた。ばーさんの使いだって言ってな。どうも代理人を立ててやりとりしてるようだったが、なんとか入院先を聞くことができた。行ってみるか?」
わたしは首を振った。
「いずれ時が来たら行く。でも今はまだ行けない。『まゆみ』がやっと心を開きだしてるのに、そんな事実を突きつけたって酷なだけだ。わたしはあの子をちゃんと仕立ててあげないとならない。じゃないと、誰も救われないじゃないか」
「でも、おまえは良いのか? せっかく作ってやっても結局は……」
「やめて」
祥平がなにを言おうとしているのかがわかって遮った。
「3ヶ月後にここを離れる」
それはつまり、三ヶ月の命だと言っていたのだ。限られた時間のなかでアボット氏は『まゆみ』を私に託した。そばに置いておくことも当然考えたのだろう。それでも彼は『まゆみ』でスーツを仕立てて欲しいと頼んできたのだ。『まゆみ』を死に装束にするために。
ドレスのファーストパターンが完成し薄手のシーチングで試着補正に向けて仮縫いをしていると、不意に『まゆみ』が口を開いた。
【ぼくの名前はユオニマスから取ったって】
「ユオニマス?」
聞き慣れない言葉にわたしは首をかしげる。目を向けると『まゆみ』は床の上で膝を抱えていた。この数日彼はこうしてわたしの仕事を眺めるようになっていた。
【木の名前だよ。秋になると真っ赤な実を付けるんだ。でも、ぼくの生まれたところにはその木は生えていなかったよ】
何かに導かれるようにぼんやりとした表情をしている。
【ぼくはスコットランドの小さな織物工場で生まれたんだ。お父さんは出来上がったばかりのぼくを見て幸せそうに笑っていたよ。それからしばらくしてぼくを作ってくれた人に会いに行こうって海を渡ったけど、何年も何十年もお父さんはその人に会うことが出来なかった。どこにいるのかわからないって、夢を見ていたのかもしれないって。それが理由かはわからないけど、お父さんはぼくを服に仕立ててはくれなかったんだ】
そう言って『まゆみ』は悲しそうに笑った。
【だからかな、ぼくは服になってお父さんに着てもらうなんて一度も考えたことがなかったよ】
「君がここに来てから、君の夢を見るんだ。『なお』っていうのはアボットさんの恋人?」
ふと気になって『まゆみ』に問いかけると、彼は悲しげにうなずいた。
【お父さんは今も恋人のことを忘れられないでいるんだ】
「その人は日本人なの?」
【わからないよ。ただ、僕を『まゆみ』って名付けたのはその人。その人が僕をつくってくれた。お父さんはいつもぼくに話して聞かせてくれたよ。その人はとても可愛らしい人だったって】
そう言うと『まゆみ』は黙り込んだ。なにも言わずにわたしの作業をじっと見つめていた。
作業を終えて『ユオニマス』を調べてみると、それは簡単にトップページに現れた。
ユオニマス。和名はまゆみ。山錦木とも呼ばれるその木は東アジアの林に自生する庭木だそうだ。花言葉は、あなたの運命。
鮮やかな紅葉と桃紅の実が愛らしいユオニマスを眺めて思った。『まゆみ』の運命は一体どこへ向かっているのだろうと。
リバーレースのイメージはリバー機を開発したおじさんのイメージがあるのですが、ここでは貴婦人にさせていただきました。